「旅に出ようと思う」
突然、青年は口を開いた。そして昨晩の気だるさが抜けきらない身体を持て余す男を気にすることなく続けた。
「自分探し、ってのかな。色んなところを旅してさ、おれが知らない世界を見てみたい」
子供のような輝いた瞳で夢を語る青年になんと声を掛けるかを考えるべく、男はぬるくなったコーヒーを口に含んだ。
「……アテはあるのかい?」
思い返してみれば、何という愚問だろう。しかしこの時はこれが精いっぱいの反応だった。
「いや、全然。けど一度全部リセットしたいんだ。金もある程度溜まったからバイトも全部やめた。家具とかも全部処分したし、アパートも引き払う。しがらみがない今のうちに、
何もかも捨ててやりたいことをやりたいようにやる。そしたら何か見えるかもしれないだろ?」
屈託なく笑う彼の表情に偽りはない。若さゆえの青さという表現がぴったりだが、それを口にするには少々憚られた。
「だからさ、マルコとも終わりにするよ」
「……そうかい」
初めから分かっていたシナリオだ。動揺はしなかった。
玄関先で靴を履く青年の背中をただ視界に入れていると、ボロボロのスニーカーのつま先がこちらを向いた。そばかすが散った青年の顔に柔らかい笑みが浮かんでいる。
「握手、いい?」
言われるがままに手を差し出すと、体温の高い手でぐっと握られた。
「3か月だっだけどすげェ楽しかった。ありがとな」
「……元気でな」
「うん。マルコも。それじゃ」
まるで羽でも生えているかのように、彼は軽やかに男の元から去った。
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