「ふぁ~……」
空は快晴。波は穏やか。絶好の航海日和だ。
甲板に出たエースはうーんと伸びをし、だいぶ日が高くなった外の空気を目いっぱい吸い込んだ。
腹は減っているが、とうに朝食の時間は終わっている。多分サッチに強請れば何か出てくるだろう。
今日は2番隊は非番で、早起きをする必要はない。だからいつもは飛び起きる寝床からは出ずベッドの中でゴロゴロと過ごした。そうすると、腰のあたりがずんと重たくなるあの感じになってしまい、そのままヌいた。エースは年の割には淡泊な方で、そういうことにあまり興味がない。悪い大人の代表ともいえる4番隊長の兄がたまにエロ本を貸してくれるが、何というか彼の趣味は少々マニアックでエースには合わず、それをおかずにすることは殆どない。それでも溜まるものは溜まるので時々こうやってこっそりと抜くのだが、それもただの処理にすぎなかった。だから別に罪悪感を感じることもなく、身体も軽くなった気がして快調なのだが。
「おはよう。エース」
「あ、おはよう。マルコ」
彼に声を掛けたのは、1番隊隊長のマルコだ。いつも眠たそうな瞼だが、その瞳は全てを見透かすように碧い。最近、エースはその色に心のどこかがざわつくような感じがしている。
マルコと話したくないわけではない。むしろもっと話したい。一緒にいたい。だがどこか怖い。その感情が何かということに、エースはまだ気付いていない。
じっと見つめられ、エースは何となく目を逸らした。
「朝、抜いたのかい」
唐突に突かれた図星に、エースは怯んだ。ああもう、何でこの隊長はこんなに聡いのだろう。
「あ……う、うん。ごめん」
悪いことをしたつもりはないのだが、叱られた子供のように謝ってしまった。そんなエースに、マルコは少しだけ眦を下げた。
「別に謝る必要はねェよい。そんな気分の時もあるだろい」
「うん。ちょっと、な」
もごもごと返事をした。そうだ。別に恥ずかしがることじゃない。生理現象なのだから。
だが朝の爽やかな風が吹く甲板でする話題としては、やっぱりちょっと後ろめたい。
「しかしおまえ、それじゃぁ力入らねェだろい」
「そ、そんなことないよ。……マルコだって、あるだろ? そういう経験」
「ああ、まぁそりゃねい」
「だよな!」
気ままな海賊稼業だ。相手は家族で、同性で、別に恥ずかしがることなんてないじゃないか。エースは何だか安心してさらに続けた。
「抜いたって力は入るし、むしろ抜かないほうがモヤモヤするっていうか。なんつーか、朝ってムショーにそういう気分にならねぇ?」
すっかり気を許したエースはマルコに同意を求めたが、そのマルコの眉がひょいと上がった。
「エース」
「……なに?」
「おれは朝飯の話をしてたんだが、おまえは何の話をしてるんだい?」
* * * * * * * * * * * * * * *
非番の朝にこの部屋をノックするなどいい度胸だが、それが可愛い末弟となると邪険にするわけにもいかず、16番隊隊長はドアを開けた。入るなり小上がりに突っ伏したエースの横に、頃合いに冷めた緑茶を置いてやる。
「どうしたんだ、朝っぱらから」
「……イゾウ、おれ灰になりてェ」
「おまえにはちィと難しい願望だな。で、何があった」
転がり込んだからには事情を説明しないわけにはいかないことをエースも分かっているようだが、何やら葛藤があるらしい。イゾウは焦らずエースの横に腰かけ、ふわりと飛んできた蛍火でキセルをふかして待つ体制を取ると、エースは渋々口を開いた。
「……マルコに、『朝ヌイいたのか?』って聞かれたから正直に答えたら、メシの話だったんだ」
「……っ!! ごほっ!!」
危うく朝の一服で噎せ死ぬところだったが、伊達男は湧き上がる笑いと共に根性で耐えた。この苦しみは、あとでサッチに八つ当たりという形で還元すればいい。
「……っ、その流れだと普通はメシだろ。どうやったらマス掻きの話になるんだ」
「だって……その、見られてたのかと」
「甲板で大股開いてヌイてたのか?」
「違ェよ! ちゃんと自分の部屋のベッドでだよ。布団も被ってたし」
マルコに話した時よりも生々しい告白になっているのだが、凹み倒しているエースは気付いていないようだ。
「イゾウ、どうしよう。おれもうマルコの顔見れねェ」
「バカだねェ。おまえは」
ぽん、と吸殻を落とし兄は苦笑した。戦闘能力は並外れて高いくせに、こういうところは年よりも幼い。そのギャップがオヤジを始めクルーがこぞって可愛がる理由の一つだ。
「男なんだから当たり前だろ。というか、おまえは年の割に淡泊すぎる。むしろちゃんとヤることヤっててマルコも安心しただろ」
「……そう?」
「ああ」
語弊のある言い方だが、エースがそれで納得するなら良しとしようとイゾウは判断した。ただこの聡明な兄は、聡明すぎる故に少々踏み込んでしまった。
「どうせオカズはマルコだろう。次に聞かれたら『アンタで抜いてた』とでも言ってやればいいさ。きっと面白い顔が見れるぜ」
「!!!!」
一瞬にして真っ赤に染まったエースの顔に、イゾウは自分の計算違いを自覚せざるを得なかった。つまり、エースはまだ自分の恋心に気付いていない。もちろん相手の気持ちにも。
イゾウが想像していた以上に、彼は純朴だったようだ。
「オ、オカ、オカズとか……っ!」
「あ~……、すまん。サッチの本には一切反応を示さないと聞いてたから、てっきりマルコをオカズにしてると」
「ま、マルコを、マルコがそんな、あの……!」
動揺するエースにイゾウがすっかり冷めた茶を手に持たせると、彼はそれを一気に飲み干した。
「お、おれ帰る! お茶ご馳走様でした!!!」
「おう。部屋に戻ったら、ちゃんと鍵を掛けろよ」
勢いよく下げた頭が小上がりにゴチンとぶつかったのも気にせず、エースは部屋へ逃げ帰った。
要らぬことを言ったなァとイゾウは悔いたが、まぁそれはそれで面白い。彼がこのあと部屋で何をするのかは、言わずもがなだろう。しかしそんなことに興味はないと、イゾウは身なりを整え部屋を出た。目的のドアを開けようとノブに手をかけたところで、心の尾羽根を膨らませているであろう一番隊隊長が出てきた。手にしたトレーには、おおよそ彼のものとは思えないボリュームの食事が乗っている。
「おはようマルコ。子猫ちゃんのところか?」
「まぁねい。えらくご機嫌だねい」
「ああ。朝からいいモノが見れた」
「余計なこと言うんじゃねェよい」
「あれは不可抗力だ。大体、おれにはあんたがまだお手付きじゃないってこと自体が驚きだが?」
「美味しいものは最後に取っておくタチでねい」
「ふふ。あんたらしいな。まァせいぜい可愛がっておやり」
滅多に変えない表情を変えた不死鳥殿の肩をぽんと叩き、イゾウは文句を言いながらも遅い朝食を取り置いてくれているパートナーがいる厨房のドアを開けた。
今日はいいことがありそうだ。
(おわり)
-------------------------------- エースくんがただ可哀想なだけのお話
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