「癒しの……アロマリラクゼーション?」
修行中のレストランからのいつもの帰り道、その看板は唐突に飛び込んできた。
「マッサージかぁ……」
実家のレストラン「バラティエ」を継ぐために調理の専門学校に通い、そのままジジィの知り合いのレストランで修行をしてもうすぐ3年。この春には「バラティエ」に戻る予定だ。
あと3ヶ月少々で今の師匠から教わることが出来なくなると思うと、いつも以上に熱が入った。もう少し、あと少しと思いながらしゃにむに頑張ってきたが、その看板が目に入ったということは自覚はしてないけど身体が疲れているのかもしれない。
近づいて看板をまじまじと見てみる。相場は分からないけどそんなに高い値段ではないし、上品な看板からは変なお店ではなさそうな雰囲気を感じる。それに何だか、肩がじわじわと疲れを訴えてきた気がしてきた。もし可愛いレディが足とかをマッサージなんてしてくれたら、ちょっと嬉しいかもしれない。そんな不埒なことを考えながら、俺は雑居ビルの地下へと足を運んだ。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは可愛いレディ……ではなく、スタンドカラーの黒シャツを着こなした黒髪の男性で、少しだけがっかりした。だが、頬に散ったそばかすが一見クールに見える彼の顔立ちを愛嬌のあるものしている。こちらを見る黒い瞳に一瞬吸い込まれそうな気がした。
「あの……表の看板を見て来たんですけど」
「ありがとうございます。アロマリラクゼーションでよろしいですか?」
「はい」
「ではどうぞこちらへ。お荷物、お預かりしますね」
ジャケットと鞄を預け、そのまま奥へ通された。
「カルテを作りますので、こちらにご記入ください。コースは症状をお伺いしてご提案させていただきますね」
クリップボードに挟まれた用紙には、名前や住所と今の症状を記入する欄がある。ボールペンを走らせていると、すっと横に湯気が立ったティーカップが差し出された。
「ハーブティーです。蜂蜜で少し甘みをつけてあります。よかったらどうぞ」
書き終わった用紙を渡し、勧められるままにカップに口をつけた。ほのかにオレンジの風味がするけど、この甘い香りは……。
「リンデン……?」
「仰るとおりです。本来でしたら、ご来店時にはレモングラスをベースにしたリフレッシュ系のハーブティーを提供させていただいているのですが、少々お疲れ気味とお見受けいたしましたので、リンデンフラワーに少しだけオレンジピールを加えた、リラックス系のものをご用意いたしました」
立て板に水といった感じの返事と共に、よくお分かりになりましたね、と人懐っこい笑みが返ってきた。今のレストランはオーガニック系に力を入れているのでハーブティーも多種多様な取り扱いがあり、最初の頃は慣れないハーブの名前と香りを覚えるだけでも大変だった。そんなこともあったなぁとふと頬が緩んだのは、ハーブティーの力だろうか。それともこの人の笑顔だろうか。
それにしても、顔を合わせてたった数分でここまで見抜き、的確な提供が出来るこの人の接客スキルの高さに驚いた。身体の凝りをとってくれたらそれでいいと思っていたけど、このお店はもしかしたら大当たりかもしれない。
「ありがとうございます。あの……」
「申し遅れました。私はこういうものです」
差し出された名刺にはポートガス・D・エースとあった。いくつか並んでいる肩書きの中に、ハーバルセラピストの文字がある。ハーブのプロか。どうりで詳しいわけだ。
「エースさん、ですね」
「エースでいいですよ。年もそんなに変わらないし」
この人の笑顔は、人を魅了する力がある。そう感じた。
「では症状をお伺いしますね。職業はコックさんですか。では、ほとんど立ち仕事ですね」
渡したカルテにすらすらと記入していく彼に、おれは聞かれるがまま答えた。
「ええまぁ。でも下を向いている仕事なので、肩こりの方が酷くて」
「確かに肩も辛そうですが、足の疲れというのは案外分かりにくいものなんですよ。ちょっと失礼します」
そういうと、エースはするりとしゃがみこんで、おれのふくらはぎをきゅっと押さえた。途端に足の血液が止まったかのような圧迫感が走る。
「ぅ……っ」
「ほら張ってる。足を重点的にしたほうがいいですね」
宥めるように足をさすり、背中を腰から肩にかけてひとなですると、エースは再び椅子に座ってカルテに書き込んだ。
「背中もだいぶ硬くなってるようですので、全身コースで足と腰を重点的に施術いたしましょうか」
「お願いします」
餅は餅屋だ。任せたほうがいいだろう。
1時間後。おれはすっきりと軽くなった足を弾ませ家路に着いた。いい予感は見事に的中し、的確なエースの施術に身体中の凝りがみるみるうちにほぐれていくのが感じられた。
それからというもの、営業時間が深夜2時までというのもあり、おれはしばしば店へ通うようになった。明るく朗らかなエースの人柄にも癒され、同年代の友人があまりいないおれにとっては彼と話が出来ることも楽しみの一つになっていた。
「リンパドレナージュ?」
すっかり砕けた口調になったエースから「新しい施術を試してみたいんだけど、モニターになってくれない?」と提案があったのは、数度通ったある日のことだった。リンパは何となく分かるけど、ドレナージュって……何だ?
「ドレナージュは、フランス語でマッサージって意味なんだ。ただ、巷で見かけるリンパマッサージとは意味合いが違ってね。ドレナージュはリンパの流れをよくするだけじゃなくて、その原因も解消する技術のこと。外国ではれっきとした医学なんだよ。女性にすごく人気があるんだ」
「へぇ、そうなんだ」
エースの施術はいつも知識に裏打ちされた的確さがあり、ホームケアの方法も惜しみなく教えてくれる。これだけの知識を持っているのに更に新しい技術を取り入れようとする彼の意欲に、おれはすっかり感心してしまった。
「でも、おれなんかでいいのか? 女性に人気なら、モニターをしたがるレディもいるんじゃないの?」
おれの小さな疑問に、エースは少し照れるように苦笑した。
「それがね。リンパは顔と身体に数ヶ所大きな流れがあるところがあってそこを重点的に解すんだけど、結構きわどいところもあるんだ。ちゃんとした技術があるならともかく、まだ自信がないし、女性のお客さんにはモニターを頼みにくくてさ。サンちゃんなら男同士だから、少々触っちゃっても平気だろ?」
「ひでぇ! 実験台かよ!」
声を荒げたおれに、エースはあははと明るい笑い声で応えた。
「そうだよ。失敗してお客さん減ったら困るからさぁ。ね? お願い」
「も~、しょうがねぇなァ」
随分と謙遜した言い方だが、エースのことだ。ちゃんと知識と技術を蓄えた上での申し出だと思うし、不安は全くなかった。何より彼の屈託ない笑顔には、全てを許してしまう力があった。
「じゃぁ、今日はこれに着替えてね」
数日後。おれの休みに合わせて「研修のためお休みします」と張り紙が張られた店の中で、いつものように更衣室に案内された。「オイルがついちゃうと思うから、下着も籠に入ってるのに履き替えてね」と言われたものの、さして深く考えずにガウンの下のそれを取り出すと、
「うわ……」
パッケージに入っていた下着は、絶対に自分ではチョイスしない、ものすごいビキニタイプだった。
気配を感じ取ったのか、カーテンの外側でエースがくすりと笑った。
「おれしか見ないから恥ずかしがらなくていいよ」
「べ、別に恥ずかしくないって!!」
エースに見透かされたように言われ、さらに恥ずかしくなったのを誤魔化しながら着替えた。
通された部屋には、いつもと違う少し甘く重たいアロマの香りが漂っていた。
「準備してくるから、横になって楽にしててね」
部屋のドアが静かに閉められ、おれはそのままベッドに横になった。
同じエースの声なのに、先ほどより甘く聞こえるのは気のせいだろうか。
どれぐらいそうしていただろうか。部屋の香りが頭の中まで入った気がして、甘く蕩けている気がする。このまま寝てしまいたいような誘惑に駆られるが、そんな気持ちとは裏腹に腰の辺りはじんじんとしていた。
「……マジかよ」
普段と違う下着の締め付けが刺激になったのか、おれの下半身はわずかではあるが芯を持ち始めていた。けどこんなところでおっ勃ててたら、ただの変態じゃないか!
おさまれ! おさまれ! と念じるものの全く気配がおさまることはなく、そんなことをしている間にドアが静かにノックされた。
「おまたせ。寝ちゃってた?」
「あ、ううん。大丈夫」
そう? と小首をかしげて笑うエースは、幼いのか大人っぽいのか分からない表情をしていた。頭の芯がぼんやりした感じで、おれは言われるがままにガウンを脱いで下着1枚でうつぶせに寝そべった。
「じゃぁオイルを塗るね。温めてるけど、冷たかったら言ってね」
適温の液体がとろりと背中の窪みに落とされ、大きく暖かい手で全体に伸ばされる。
……あ、すげ、気持ちいい。
絶妙な力加減で押され、おれは思わず安堵のため息をついた。肩甲骨から背骨の両脇の筋肉をぐいぐいと押されながら降りてきた指は、腰まで行くと一旦動きを止めて、足首へと移動した。
「今日も足が疲れてるね。少し強めに刺激してリンパの流れをよくするから、痛かったら教えて」
オイルが増やされ、アキレスから徐々に上に上がり、ふくらはぎを少し強めに押される。少し痛いが気持ちいい刺激で、おれは呻きながらもじっとしていた。みるみるうちに足が軽くなるのを感じたが、手が腰に移動した時点で俺の動きはこわばった。
「……っ」
痛みとも違う、くすぐったさとも違う。これは明らかに……快感だ。先ほどのじんとした下半身の疼きが、腰を触られることによって再燃してしまった。エースは丹念にマッサージしてくれているが、ここまでくるとありがた迷惑に近い。
「あ、あの……そこはもう……」
「くすぐったい? 身体がこわばってる」
少し笑いを含んだ声音で言われ、おれは顔が火照るのを感じた。だったら加減してくれ! と言いたかったが、頭の中の霞がかった感じは、思うように言葉を紡がない。
「はい。次は仰向けね」
「……いや、あの……」
ちょっと今仰向けになると……あんまり良くないかもしれない。
なかなか動かないおれにエースはふっと笑い、おれの耳元に口を寄せてきた。
「大丈夫だよ。生理現象だから。男同士だし恥ずかしくないよ?」
その低く甘い声に、ぞわりと背中がざわついた。
意を決して仰向けになると、黒曜石のような瞳がおれを見つめていた。
「どこか痛いところは?」
「あ……ない、です」
完全にプロフェッショナルとしての顔で聞かれ、自分だけ変な気分になってしまっていることをおれは心底後悔した。恥ずかしさのあまり逃げたくなったが、ぱさりと腰周りにタオルを掛けられ、少し気持ちが和らぐ。
「じゃぁ、前の方も触るね。目元にもタオル掛けるから、寝ててもいいよ」
ふわりと掛けられたタオルからは、また別の香りがした。おそらく多種多様なアロマを使っているだろうが、それらは主張しすぎることなく、絶妙なバランスで絡み合っている。このまま黙っていたら何かとんでもないことを口走ってしまいそうで、おれは慌てて話題を探した。
「あの……この香りは、全部エース……が?」
「そうだよ。調香師の資格も持ってるんだ。一滴の香りで世界って変わる。魅力的だよ。アロマの世界は」
肩にオイルを落とされ、肩甲骨をベッドへ押し付けるように広げられる。自分では出来ないその気持ちよさに、おれは思わずため息をついた。
肩をくるりとほぐされて、肩の付け根をぐ、ぐ、と押され、そのまま手首をきゅうと掴まれた。
視界が閉ざされている分、感覚が鋭敏になっているのが自分でも分かる。
だから……。
「……っ、ちょ……あの……」
すっと腰のタオルを剥がされた感覚に、おれは思わず起き上がろうとしたが、肩を押されて制止された。
「言ったでしょ? 生理現象だって。おれしか見てないから大丈夫。恥ずかしくないよ?」
静かだが有無を言わさない声音に、腰が甘く疼く。
明らかに形を変えているであろう股間には触れず、オイルを馴染ませたエースの手が足の付け根に触れた。
「……っ!」
「四肢の付け根は、リンパの通り道なんだ。でも場所がきわどいだろ? だからサンちゃんに頼んだんだよ」
「エース……」
はらりと顔に掛かっていたタオルが落ち、おれを見つめるエースの瞳が目に飛び込む。ここまで来て、ようやくおれは尋常じゃない事態に陥っているということに気が付いた。だけど、初めてこの店に来た時に感じた、あの吸い込まれそうな瞳から目をそらすことが出来ない。
「ちょっと効きすぎちゃったかな? 加減したつもりだったんだけど、サンちゃんって感じやすいんだね」
ふわふわとエースの声が響く。笑ってるエースの顔は、少し悲しげにも見えた。
「そんな怯えた顔しないで。気持ちがいいことしかないから」
降りてきた唇が重なるのを、おれはまるでスローモーションを見ているかのように受け入れた。
「……うぁああっ!!」
何度目か分からない絶頂に、おれはただ腰を震わせるしかなかった。ベッドについた膝がガクガクと震え、耐え切れず腰を落とす。ぬるついた腹の気持ち悪さも気にする余裕がないほど、おれは容赦なく与えられる刺激に悶えた。
尻に埋め込まれた指は奥へと進み、執拗に広げる。その先なんて知るはずがないのに、おれの身体は欲していた。
「エース……、エース……っ!!」
助けてほしくて、楽にしてほしくて、ひたすらエースの名前を呼ぶおれを、エースは優しい目で見つめ、頬を撫でる。
「可愛いなァ。サンちゃんは。ずっと可愛いと思ってた。こんなことをしたいって思うぐらいにさ」
「あ……っ! う……んぁ……、は、あぁあ……!!」
「ね、もっと気持ちよくなってよ。おれじゃないとダメなぐらいにさ」
おれのモノに、なってよ。
遠くに聞こえる声に再び吐精し、おれは意識を手放した。
「……ちゃん、サンちゃん。お疲れ様。終わったよ」
穏やかなエースの声に、ふっと意識が浮上した。いつの間にか眠っていたらしい。
「大丈夫? よく寝てたね」
「……ああ、うん」
上から掛けられたガウンは清潔そのもので、シーツにも染み一つない。あれは夢だったのだろうか。だとしたらおれは、何てとんでもない夢を見たのだろう。
「おれ、寝て……た?」
「うん。疲れてたんだね。ぐっすりだったよ」
「ご、ごめん」
くすくすと笑うエースに、おれは恥ずかしくなった。「バラティエ」に戻る最後の追い込みもあり、ここ数日は無我夢中で働いて睡眠もろくに取れていなかったけど、だからってここで爆睡しなくてもいいじゃないか。
座ったおれに差し出してくれたお茶は、鮮やかな赤色をしていた。
「ローズヒップとハイビスカスのブレンドだよ。ベーシックな組み合わせだけど、疲労回復に効果があるんだ」
口に含むと酸味の中にほのかな甘さが広がり、炎のように情熱的な色とは対照的な優しい味がした。
「だいぶほぐしたから、もし揉み返しとかが来たら言ってね。そんなヘマはしてないつもりなんだけどさ。あと、水分もたくさん摂ってね」
「……うん」
ゆっくりと足を降ろし、立ち上がる。確かに身体はすごくすっきりとしていた。ドアまで送ってくれたエースが、人好きのする顔で笑った。
「サンちゃん、今日は本当にありがとう。おかげですごく勉強になったよ」
「こちらこそ、ありがとな。何か悪いな。本当にお金とかいいのか?」
「おれが払いたいぐらいだよ。気持ちだけでいいよ。ありがとう」
まだふわふわとした気持ちのまま、おれはガラス戸を開けた。外の空気と店の空気が交差した瞬間、「あの香り」が再び鼻腔をくすぐった。はっと振り返る。
「またね、サンちゃん」
あれは夢ではなかったと確信したときにはもう遅く、ドアは閉められていた。
あの香りはすでに空の彼方へと昇華され、そこにあるのは春が目の前に感じられる爽やかな風だけだった。
絞められたドアを再び開ける勇気は、今のおれにはない。
おれは、どうすればいい……?
(おわり)
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サイト4周年記念
Proust Effect【英】 香りや味などが特定の出来事や人などを思い出させる現象。
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