ふと見上げた時計は、すでに深夜と呼べる時間を指していた。
「……寝るかねい」
マルコは目頭を押さえ、没頭していた本にしおりを挟んでテーブルに置いた。傾けた首から、こきりと小さな音が聞こえる。一体何時間同じ姿勢でいたのか見当もつかない。だが数十分でも数時間でも、時間が過ぎてくれるのであればそれでいい。
水を飲もうとキッチンへ行き、気が変わった。カウンターに並べているメイソンジャーの一つを手に取る。糸状の葉が入った液体は、光に透かすとまるで魚になって水の中にいるような感覚になる。開けると甘い香りが漂うそれを小さなグラスに入れ、口に含んで風味を楽しんだ。
元々は、酒飲みの同居人の為に作ったハーブ酒だ。フェンネルには消化促進やアルコール分解の作用があるからと勧めたのだが「薬みたいでイヤだ」とほとんど飲まず、結局あまり胃の強くないマルコが胃薬代わりに飲んでいる。甘くどこかほろ苦い香りは、同居人はともかくマルコの口にはとても合う。
台風一過から数日が経過した夜は、昨晩までの蒸し暑さを一蹴するような風が柔らかく流れている。冷房の風に弱いマルコと違い、同居人はいつでも暑い暑いと言ってクーラーをつけてしまう。それでも「同じベッドで寝なきゃ意味がないだろう」という横暴とも言える彼の主張により、キングサイズのベッドの左側には夏場だというのにマルコ用の薄手の羽根布団がセットされていた。昨晩までのうだるような暑さの下ではさすがにクーラーの力を借りたが、今晩はそれに頼らず自然の風を感じながら快適に眠れそうだ。
「……羽根布団は暑いねい」
暑がりの同居人のせいで設定温度が20℃を下回る室内では欠かせない羽根布団だが、その彼が不在の今日は必要ない。彼の定位置であるベッドの右側にそれを無造作に投げ、マルコはごろりと横になった。
「あと1週間、か」
取引先の相手であり、同居人であり、そして恋人でもあるシャンクスが出張に出て2週間になる。約3週間の出張になると言っていたので、帰宅は1週間後だ。
自身の会社である「RFトランスポート」を立ち上げてから、シャンクスは格段に忙しくなった。まだ自転車操業と言わざるを得ない経営状態で社長が奔走するのは当たり前のことだし、マルコも今の仕事で重要なポジションを任されつつある。以前であれば容易に取れていた2人の時間も、明らかに減っていた。同じ男として、彼の仕事のことは理解しているつもりだ。だが、今のちょっとしたすれ違いが大きな亀裂となってしまうのではないかという漠然とした不安がマルコを苦しめているのも事実だった。それを敢えて見ないようにしている自分の弱さに、マルコはまだ気付いていない。
ひやりとした風が、肌をなぞった。シャンクスの枕元には、一枚のキルトケットが畳んでおいてある。「寝る時は何も掛けないほうがいい。何なら全裸で寝たい」と主張するシャンクスに、「粗末なモンを見せるんじゃねェよい。服とこれを掛けないなら、おれは別の部屋で寝るよい」とマルコが半ば脅して渡したものだ。渋々ながら使われているそれも、彼が出張へ行った日に洗濯をしてから畳まれたままだ。羽根布団は要らないが、何か1枚掛けて寝たい。持ち主がいないのならば丁度いいと、マルコは一晩拝借することにした。
柔らかい布地が、マルコを優しく包む。シャンクスは腹にだけ掛けているが、マルコは基本的に何かにくるまって寝るのが好きだ。だから首から足先まですっぽりと覆ったのだが。
「……っ」
洗ってもまだなお残るシャンクスの香りが、マルコの全身をふわりと包んだ。まるで彼に抱き締められているような錯覚に陥り、ぶるりと震える。マルコ、と甘い声までもが聞こえる気がしてかぶりを振った。彼の香りがマルコの官能をくすぐり、まだ若い幹は、素直に反応を示す。
「くそ……っ、こんな」
自慰など長いことしていない。盛りの付いた時期は過ぎたし、シャンクスが毎晩のように求めてくるので必要なかった。だが枯れているわけではないそこは、2週間、誰も触れていない。
恐る恐る下肢に手を伸ばした。待ち望んだ刺激に、雄がぐっと反り返る。
到底収まりそうにない欲望に、マルコは荒くなる息を誤魔化すように息を吐いて観念した。
久しぶりの倦怠感に、身体はくったりとリラックスしてる。気持ちよくなかったといえば嘘になる。だが身体の解放感とは裏腹に、虚しさがマルコの感情を支配していた。
何とか後処理だけを済ませて再びベッドに寝転がる。キルトケットを引き寄せ、胸に抱いた。他意などない。たまたま手が当たったからだ。
「……早く、帰ってこいよい」
キルトケットに口づけをして聞こえない想いを口にし、ようやく効いてきた寝酒に身を任せてマルコは眠りについた。
3週間の予定だった出張が2週間に短縮できたのは、相手の心を掴むシャンクスの話術と、隙を見せない右腕の交渉力に他ならない。帰宅が1週間も早まることを黙っていたのは、純粋に恋人を驚かせるつもりだったからだ。最終便の飛行機に飛び乗り、空港からタクシーを飛ばして帰ってきたのも、一晩でも多く恋人と過ごしたいという思いだけだった。それがどうだ。見事にカウンターパンチを食らってしまった。
開けようとした寝室のドア越しに聞こえてきたマルコの声は明らかに情事のそれで、しかし身持ちが固い彼が他の人間と行為に及ぶなど微塵も考えられない。切なげに自分を呼ぶ声が途切れ途切れに聞こえてきて、シャンクスの理性は爆発寸前だった。よくドアをぶち破らなかったものだと自分を褒めてやりたい。
気配が完全に消えたことを確認して、シャンクスは静かにドアを開けた。自分のキルトケットを抱き締めて眠る恋人の姿を見て、心から愛しいと思う。だがそれと同時に、この幸せがそう長くは続かないということにも、シャンクスは気づいてしまった。
「……まいったな」
眠る金糸を優しく摘まみ、シャンクスはマルコの耳には決して入れない深い声音で呟いた。
(おわり)
------------------------------ 0721の日2015 フェンネルの花言葉は「背伸びした恋」
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