マルコはエースの家に行ったことがなかった。エースは招かなかったし、マルコも興味はなかった。この数ヶ月、毎日のように顔を突き合わせていたのに、マルコはエースのことを大して知らない。好きなものも、嫌いなものも、エースが本当はどんなことを考えているのかも。
一度だけ、弟のルフィが昔よく"家出"をしていた公園の話を聞いたことがあった。夕日が綺麗に見える小高い丘の上にあり。家から子供の足で10分ほどの距離だそうだ。ルフィはエースや祖父に叱られたときに拗ねて出て行き、でも必ずそこの公園のブランコに座って泣いてたんだと懐かしそうに話していた。
道だって簡単に聞いただけだ。しかし元来記憶力のいいマルコは、何となくその場所を覚えていた。
小さな公園の正面にあるブランコに、エースは背を向けて座っていた。もう夕暮れ時で子どもの姿はなく、彼の背中はまるで親を待っている子どものようだった。
ゆっくりと歩を進め、ブランコなんていつぶりだろうねいと思いながら隣に腰をかけた。ちらりと見たエースの表情は髪に隠れて見えないが、まるで泣いてるようだった。
しばらく様子を伺うように黙っていたが、エースが口を開く気配はない。マルコはとりあえず詫びるかと口を開いた。
「あ~……。悪かったよい」
「思ってねェだろ」
ずばりと指摘されマルコは返す言葉がなく、「……よい」と小さく答えた。その姿を見て、エースがくすりと笑った。その顔に涙はない。
「前に話してたの、憶えてくれてたんだ」
「……まぁねい」
くふっとくすぐったそうに笑うその横顔が、いつもよりも儚げに見えた。
「ルフィを探しによく来たなァ。いっつもこのブランコに座ってビービー泣いてさ。怒ってないから、とか、メシ出来たから、とか宥めて連れて帰ってさァ。すげェ可愛かった」
キィ、と鎖が鳴き、エースの身体が揺れた。
「おれもガキの頃に一度だけここに来たことがあってさ。親なし子とか言われて、とにかく悔しくてやさぐれて。どうせルフィともジジィとも血なんて繋がってねェし、このままどっか行っちまおうとか思って。そしたらボロボロ泣いたルフィがジジィを引っ張って迎えに来てさ。ジジィの拳骨食らって、3人で帰った。ジジィは隠してたけど、泣いてた。でもおれは泣けなかった」
キィ、キィと、鎖の軋む音だけが鳴った。
「おれの存在意義ってなんだろうな、って思うんだ。生まれてきて良かったんだろうかって。ルフィは大切な弟だし、ジジィだって口うるさいけどおれにとっては家族だ。でも、おれがいなくてもルフィとジジィは幸せだったと思うしさ。なんつーか、おれって何で今普通にダイガクセイとかしちゃってんだろうって、気分が落ちたときは考えちまう」
淡々と話すエースの表情は、いつも通りのそれにも見えた。
「……おまえの気分を落としたのは、おれかい?」
「分かってんじゃん」
アーモンド形の瞳がイタズラっぽく光った。しかしそこにいつもの明るさはない。
「求めて欲しかったのかなァ。あんたに。『グラディート』でバイトを始めてからツレっぽく一緒にいたのに、突然音信不通になって。ケータイとか連絡先も知ってるのに何も連絡ねェし、おれも何となく意地張ってメールとかしなかった」
けど、と立ち上がった。夕日がエースの後ろに隠れ、逆光で彼の表情は見えない。
「しょうがねェよな。おれはガキだし、あんたは大人だ。あんたの言うとおり、どこに行こうと何をしようと勝手だ。今まで誰かにそんなことを求めたことなんてなかったのに。ハハ、変だな」
底抜けに明るく見えて内に暗さを秘めているこの青年が、今何を考えているのかマルコには痛いほど分かった。そしてそれが"よくないこと"だということも。
「おれは人付き合いが面倒でねい。仕事以外ではなるべく人と関わらねェようにしてたんだよい。それが『グラディート』でおまえがあのオブジェに魅入ってるのがやたら気になった。たかがバイトのバカ学生のレポートなんてほっときゃいいのに、資料を貸してレポートまで見てやった。今まで誰かにそんなことなんてしたいとも思わなかったのにねい」
「……何が言いたいんだよ」
「おまえとおれは、似たような感情を持ってるってことだ」
「……ガキとおっさんが?」
「不思議なもんだねい」
よい、と立ち上がり、エースの前に立った。
「おまえはいろんな人に愛されてるよい。じいさんや弟や、サッチだってそうだし、ダチも多いじゃねェか」
「……マルコも?」
見上げたその瞳は、そう、あの時と一緒だった。そうだと言ってくれ。肯是してくれと、そう語っている。
しかしマルコの口からはあの時とは違う、エースが望んでいない言葉が出た。
「……おれは、ちょっと違うねい」
「……そっか」
一瞬揺れた瞳が、伏せられた。この青年はそれ以上を求めない。相手が否と言えば、それを素直に受け入れる。ハタチとは言え、自分から見ればまだ子どもだ。それなのに、彼は自分の感情を必要以上に押さえ込む。
自分のことを待っている人間がいるだなんて、マルコは考えたことすらなかった。バディを組んでいたシャンクスでさえそうだった。まるで根無し草のような自分に関心を持つ者なんて居なかったのに、この青年はするりと自分の懐に入り、もっと知ろうとする。
そして自分も、この青年を知りたいと思った。そんな生易しいものではない。身も心も自分のモノにして、彼の一生をがんじがらめにしたい。そんなどす黒い感情までもあると知ったら、この若者は怯え、自分の元を去ってしまうだろう。悲しいかな、エースよりも倍の人生を歩んでいるが故に慎重に、いや、臆病になった。自分に向けられる彼の笑顔が消えるのが怖かった。
だからこの感情が何なのかを直視せず、目をそむけてきたのだ。いい大人が。
「お、れ……さ。前も言ったけど、今すげー勉強が楽しくて……さ。今勉強してることがマルコの仕事の助けっつーか、サポートが出来るようになったらいいな、とか。なんかそこまで考えちゃってさ。や、マルコは1人でも十分に仕事できるのは知ってるから、おれの妄想っていうかさ。そこまで押しかける気はないし。けどあの、前に勉強なんて意味がないって言ったけど、マルコのおかげで何かに活かせるかなって思うようになったんだ。今の生活に意味が出来たっていうかさ。それにはマジで感謝してる。ありがとう」
真っ直ぐに自分を見据えたその瞳には、"離別"の決意が宿っていた。
ああ、おれの負けだ。
マルコは観念した。
「何でおまえがそう思うようになったか、分かるかい?」
「……え?」
逡巡するエースの顔に手を沿え、そっと唇を重ねた。
「……ただのダチには、こういうことはしねェだろい」
呆然と立ち尽くすエースに苦笑しながら、続けた。
「おまえの勉強におれの仕事を当てはめたのは、わざとだよい。そうやっておれの仕事に興味を持たせて、離れなくさせようとした。おまえが欲しくてな」
エースの瞳が、大きく見開いた。
「でも……ガキに興味ねェって。セックスだって割り切ってるって」
震える声が、精一杯の反論する。
「年を取ると意固地になってねい。一回り以上も年下のガキに自分の感情を持っていかれるなんて、なかなか受け入れられねェもんだ。それに、理性じゃおまえみたいな若いヤツをおっさんのエゴで振り回しちゃいけねェのは理解してたんだが」
ムリだったよいと、その腕に抱きしめた。
信じられないとなすがままだったエースが、やがておずおずとマルコの背に手を回し、きゅぅとスーツを握り締め、やがて肩を震わせ始めた。
「エース、こんなおっさんだが、側にいてくれよい。おれはおまえじゃなきゃダメだよい」
エースは子どものように泣きじゃくり、そのスーツに涙を押し付けた。マルコはそんな彼を今までに感じたことがない穏やかな感情で受け入れた。それは甘く切なくいのにどこかほろ苦い、うまく言葉には出来ない感情だったが、スーツにしみ込むエースの涙が自分の身体をじんわりと満たすような、そんな温かさを感じた。
街の中に隠れた太陽の光が名残惜しげに消える頃、ようやっと落ち着いたエースの目元に軽く口付けた。泣いただけではない赤みで目元を染めたエースが恥ずかしそうに笑い、くせのある黒髪をくしゃりと撫でてやりながら「これからどうするかねい」と思ったところで場違いな着信音が鳴った。
「……やっべ!! ルフィだ!」
液晶を見たエースが慌てて応答ボタンを押す。途端に弟の絶叫が携帯を震わせた。
『エーースゥ!! 腹減ったよぉおおお! メシーーーー!!』
それこそガキのようにギャンギャン泣いてるんじゃないかという声音がマルコにまで聞こえた。
「わ、わりィ!! ルフィ!! 今すぐ帰ってメシ作るから! な!」
『待てねェよぉおお!! 腹減ったぁああああ』
マルコは堪えきれずクックと笑い、あたふたとするエースから携帯を取り上げた。
「エースの連れだよい。兄ちゃん借りてて悪かったねい。メシ奢ってやるから、駅まで出てこれるかい?」
『マジ? おっさん誰? おれ肉食いてェ』
「ああ、分かったよい。たらふく食わせてやる」
『分かった! すぐ行く! すげェ行く!!』
ブツリと通話が切れた携帯をエースに返した。
「ご、ごめん……」
弟の無礼さをひたすら詫びるエースに、マルコは笑った。
「構わねェよい。もとはと言えば、おれが悪いからねい」
そう言うとマルコは自分のスマートフォンを取り出し、1本電話をかけた。 「馴染みの焼肉屋があるから、奢るよい」
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