来ない、来ない、来ない。
マルコが『グラディート』に来なくなり、3週間が経とうとしている。エースはその間もバイトに入っていたが、サッチの目には明らかに意気消沈しているエースが映っていた。
「……今日も来なかったな」
客もまばらになり、カウンターでグラスを拭きあげながらエースは呟いた。
あの男、シャンクスは、マルコの何なんだろう。最近気になるのはそのことばかりだ。
仕事上のパートナーだとサッチは言った。ということは、シャンクスもインテリアコンサルタントを生業としているのだろうか。しかしマルコは、コンサルタント業に関わる全ての業務を1人でやってのけている。仕事上、サポートが必要だとは思えなかった。
では、何なんだろうか。あの男の瞳は、多くの人間を惹きつける。女なんてイチコロだろう。嘘か本当かは定かではないが、シャンクスは自分を口説いていた。ということは男もイケる口なんだろうか。
そういえば。
マルコはエースがバイトに入っている日を把握している。あの日は水曜日で、本来ならいないはずの日にマルコはシャンクスを連れて『グラディート』に現れた。
それがエースがいる日を敢えて避けて店に来たのであれば、あの一瞬の間も納得がいく。
……もしかしてシャンクスは、マルコの恋人だったりするのだろうか。
一番信じたくない仮定が浮かび、エースはぶるりと頭を振った。
マルコのそばにいるだけでよかった。それ以上は望まないとあの夜に決めた。だけど結局それは理想論にすぎない。マルコが好きなことに変わりはないのだ。その証拠に、マルコが別の誰かと恋仲だということを想像しただけで心臓が引き千切られそうだ。ましてや、その相手が自分と同じ男だったとしたら、尚更。
おれはマルコの何だろう。幼馴染がやっているカフェにいるただのバカな大学生で、からかうと楽しいのでちょっと相手にしてやってて、だけどやっぱりただのガキには変わりなくて……。
イヤだ! やっぱりイヤだ!!
おもちゃを買ってくれない子どものようにひっくり返って、バタバタと暴れたい衝動に駆られた。
男だからダメだ、というのならまだ納得も出来る。しかし男でもいいのであれば、自分でもいいじゃないか。
おれはマルコの"特別"になりたい。
しかし哀れな若者は、それを実現する術など持ってはいなかった。
「エース。おまえ、ちょっとバイト休むか?ここに来てる方がツラいんじゃねェの?」
サッチからそんな提案を受けたのは、それから数日後のことだった。
出来る限り普通にしていたつもりだったが、マルコと同じぐらい人間の機微に敏感なこの男の目は、誤魔化すことが出来なかった。
「おれ……邪魔か?」
小さな溜息をついたのはサッチだ。
「ほらそれだ。普段のおまえはそんなネガティブ発言しねェだろ。心配してるだけだ。このままおまえに辞められるのは、正直困る」
諭すようなサッチの声に、エースはぐっと喉が詰まったが、耐えた。
「マルコは昔からああいうやつだからな。ふらっと出て行って、ある日突然帰ってくる。それは1週間だったり1ヶ月だったり、一番長いときで8ヶ月ぐらいいなかったときもあったなァ」
サッチのさりげない昔話に、エースは静かに耳を傾けた。
「あいつ、基本的に人間嫌いなんだわ。おれも長い付き合いだが、あいつのプライベートには干渉はしねェんだ。自分のことを話すのは、おれたちの親代わりのオヤジぐらいなもんだ。だからおまえを部屋に呼んだときは驚いたぜ。自分の懐に他人を入れるような人間じゃねェからよ」
サッチの話には信憑性があった。2人が今までに築いた信頼関係のなせる業だろう。エースは自分よりマルコに近い場所にいるサッチが羨ましかった。
「おまえとマルコに何があったかは聞かねェけどよ。けど、あいつはちゃんと帰ってくっから。な?」
口には出さないが、サッチだってたくさん悩んでいるのをエースは知っていた。それなのに自分のことを気に掛けてくれるその優しさが、嬉しくもあり、辛くもあった。
いっそ泣けたら楽なのに、とは思う。けど、そんなことが簡単に出来るなら、苦労はしない。
きゅっと顔を上げ、"いつもの"笑顔を作った。
「サンキュー、サッチ。ちょうど明日からテストだし、今回は休んでたまには真面目に勉強してみる」
テスト期間というのは名目上の理由だ。休んだ割にテストの結果は散々で、夏休み前にA-まで取れたスモーカーのレポートは今回はD判定で、呼び出しまで食らった。
「前回のレポートも今回のレポートも、おまえの実力じゃない。来週、再提出だ。それまでに全部解決して、自分の力で這い上がれ」
スモーカーの有無を言わさぬ言葉に、エースは力なく返事をするしかなかった。あの鋭い眼光の教授は、本当は警察官か何かではないだろうか。まるで尋問された被疑者のような気分で、教授室を後にした。
キャンパスから真っ直ぐに伸びるイチョウ並木を歩きながら、エースは初めてマルコにスモーカーのレポートを手伝ってもらったときのことを思い出した。
理論や道筋だけでなく、自分の経験談を交えて教えてくれるマルコに、エースは尊敬の念を抱いた。
「あの夜は忘れよう」と言った後もなんら変わることもなく、マルコは様々なことをエースに教えてくれた。
時々持ち帰るインテリアの資料を見せてもらいそれの生い立ちを聞く。どこの国のもので、どんな職人が作り、どんな経緯でクライアントのところへやってきたのか。トータルコーディネートの仕事のときは、コンセプトやどこに一番重点を置いているかなど、守秘義務はうまくかわしながらエースにそれとなく伝えた。交渉術や経営術、この仕事にはどんな知識が必要かということ。今エースが勉強していることが、マルコの仕事に当てはめるとどこに活かされるのか。まるで世間話でもするように話してくれた。
マルコがどれだけこの仕事が好きで、努力をしてきたか。自分のことをめったに話さない男のことを知れる、穏やかな時間だった。
今蓄えている知識を、マルコのために活かしたい。
とんだ夢物語だが、恋人はムリだとしても仕事のパートナーとしてならマルコの側にいられるのでは。エースはそんな甘いことを考えるようになっていた。
どんなカタチであれ、側にいたい。恋とは結局そういうものだ。たとえ報われなくても。
しかし、マルコは帰ってこない。サッチはあんなことを言っていたが、もう帰ってこないのではないか。それが仕事の為なのか、自分がまとわりついたせいなのかは分からないが、あの(エースにとっては)突然現れた赤髪の男がマルコを浚って行ってしまうのではないか。そんな恐怖がエースを苛んでいた。
夕暮れの空を見上げると、鳥が群れを成して飛んでいた。
ふと、あのオブジェが頭に浮かんだ。
マルコも好きだと言った、『グラディート』の一番目立つところに飾ってある、鳥が羽ばたくオブジェ。夏休みは毎日見ていたそれも、もう何日も見ていない。
あのオブジェが見たい。今、無性に見たい。
エースはいてもたってもいられなくなり、イチョウ並木を駆け抜け門を飛び出すと『グラディート』へと全速力で走った。
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