「……おまえ、エースに何したんだ?」
定位置で平然とした顔で食事をするマルコに、サッチはたまらず尋ねた。
夏休みなのでオープンから入ってもらっているエースの様子が、今日は朝から明らかにおかしい。どこか上の空で、チラチラとドアを盗み見ては小さく溜息をつき、いざ目当ての人物が来たら慌てて他の客に熱心に接客を始めたのだ。
サッチがマルコに水を出すことなんて、エースがアルバイトに来てから一度もなかったというのに、だ。
「……ちょっと深酒が過ぎちまってねい」
「は?おまえがか?よく言うぜ。……どーすんだよ、アレ」
食後の一服をするマルコに、意を決したかのように向かってくるエースを見ながらサッチは尋ねた。
「マルコ。こないださ、ゴメンな」
おそらく練りに練ったのであろうエースの言葉は、いたってシンプルだった。
「あの酒さー、すげェ旨かったけど、やっぱキツいな。昨日は二日酔いで1日寝てたぜ」
はははと空笑いするエースを、サッチはコーヒーを淹れながら気の毒そうな目で見た。
「おまえにはまだキツかったかねい」
マルコが差しさわりのない返事をした。
「マルコも、すげェ酔ってたもんな」
その瞳はまるで、そうだ、そうだと言ってくれと訴えていた。
「……。昔はあの程度じゃ酔わなかったんだがねい。もうおっさんかねい」
「……だよな!」
安堵なのか、落胆なのか、その両方なのか。エースの瞳の奥が不安定に揺れた。会話が微妙に噛みあっていないことにさえ、気付いていない。
「おれさ、マルコのことすげェ尊敬してるし、面倒な女みたいに、1回ヤったからって付きまとう気とか全然ないし、その、なんつーか、一昨日のアレはお互いになかったことにしたほうがいいかなーって思って、さ。だからさ、これからもよろしくな!」
矢継ぎ早にまくしたてるエースの言葉を、サッチはサーバーに落ちる褐色の雫に視線を落とし、目元の傷を指で掻きながら聞いた。
「……そうかい。おれもガキに興味はねェよい。まァ経験値を稼いだとでも思っとけよい」
「……おう!なかなか出来ねェ経験だよな!」
エースはそう答えると、計ったようなタイミングで出てきたコーヒーをトレイに乗せてテーブル席へと向かった。
「……ザルところかワクが何言ってやがんだ。マジで手ェ出したのかよ」
長い付き合いだが、サッチはマルコが酔ったところなどほとんど見たことがない。ベロベロに酔っ払った自分を抱えて歩く背中は何度も見たことがあるが。
「勢いでな」
飄々と言うマルコに、サッチは溜息をついた。
「勢いでヤる年じゃねェだろうが」
「風俗狂いの上に、女装趣味の野郎に言い寄られてるお前に説教されてもねい」
「うるせェよ。お姉ちゃんをバカにすんな。それと……イゾウはそんなんじゃねェよ」
語尾に勢いがなくなるサッチを横目にマルコはふんとタバコを灰皿に押し付け、「コーヒーくれよい」と尊大に所望した。
なかったことにしたい、エースはそう言った。
エースは若い。話を聞く限りでは至ってノーマルな性癖だろうし、普通に人生を歩んでいれば男とセックスをするなど有り得ない経験だ。
あの晩のエースは、酔っ払って少しナーバスになっていた。一回り以上も年の離れたおっさんに、父性を求めてしまっているのかもしれない。愛情と性欲を履き違えただけだ。
忘れたい。忘れよう。だからマルコも忘れてくれ。エースの瞳はそう言っていた。彼がそれを望むのなら、年長者であるマルコはそれに合わせるまでだ。
マルコはエースの倍近くの人生を歩んでいる。エースがまだ見ていないものも、マルコはたくさん見ている。相手の機微を悟り、合わせることなどこれまでに何度でもあったし、今回もそのなかの一つにすぎない。
これ以上は踏み込むな。理性はそう忠告していた。
他人を懐に入れるなど、ましてや自分が誰かの懐に入るなど、この年になったら面倒なだけだ。
出されたコーヒーをすすり、マルコはそう自分に言い聞かせた。
もうすぐ日付が変わるという時間に自転車で自宅に戻る。この夏休みに幾度となく繰り返してきた帰路を、エースはいつもよりゆっくり走った。
なかったことにしようという提案に、マルコはあっさりと同調した。
自分よりもはるか先の道を歩んでいる男だ。魔が差してガキに手を出してしまったことを、後悔しているのかもしれない。
マルコに対する感情に気がついてしまった今、自分の感情を押し殺すのは若いエースには辛いことだ。しかし、これ以上マルコに厄介者だと思われたくない。
今の自分に出来ることは、カフェでバイトをするただの大学生に戻って、面白おかしく日々を過ごすことだ。
考えれば考えるほど、心の柔らかい部分をナイフでぶすりと刺される。しかし今の生活を失うことに比べたら、どうということはなかった。
明日からリセットだ。セックスをする前の関係に戻ろう。 エースは尻をサドルから浮かせ、ペダルをぐんと踏み込んだ。
Comments