この出来事を境に、二人の距離はますます縮まった。コンサルト業をしているだけあって経営学もそれなりの(本人談であって、エースからすれば教授並だ)知識量があるマルコに、エースは講義で疑問に思ったことを質問するようになり、その延長線上で時折マルコの家を訪れるようになった。名目上はあの床が抜けそうな書庫にある資料を借りに行くためだが、それはほとんど口実で、一緒に喋ったりただボーっとテレビを見たりと、何となく一緒にいることが多くなった。
「マルコー!こないだのレポートが返って来たんだけど、A-だったぜ!おれケムリンのレポートでAがついたのって初めてだ!」
「AとA-は違うだろ。余計なもんがついてるよい」
「でもAはAじゃん。けどさー、『よく出来てるが、次は自分だけの力でやれ』って言われてさ。何で手伝ってもらったってバレたんだろうな」
答えをダイレクトに教えるのではなく、導く方法でエースに教えたつもりだったのだが、その道筋自体がエースの考え方ではなかったことを見抜かれたのだろう。厳しい教授だが、よく見ているし教え子のモチベーションの上げ方も知っている。
「まだ修行が足りねェってことだよい」
「ちぇっ、何だよマルコまで。でもまァいいや!これで夏休みは安泰だー!」
セミの第一声が聞こえ、期末試験とレポート提出も終わり、エースは夏休みに入った。去年はふらふら遊んだり、家でゴロゴロしたりしていたが、今年はルフィも高校の部活の合宿や試合で家を空けることが多いので、エースも『グラディート』でバイトに明け暮れた。
夏休みも終盤に差し掛かった頃、珍しい酒を手に入れたマルコがエースを誘った。バイトを早めに切り上げ、マルコの家でサッチ直伝の簡単なつまみを作り、2人で飲む。マルコはエースが知らないことをたくさん知っていた。しかしそれをひけらかすことなく、だがエースが望めば嫌な顔をせずに教えてくれた。今飲んでいる強い酒だって、失敗しない酒の飲み方を教わるための教材だ。
しかし、やはり強い酒には変わりない。エースはいつもよりも酔っていた。
「エースは何で経済学部にしたんだい?」
何となく、今まで聞きそびれていたことをマルコは聞いてみた。
「ん~……別に意味ねェんだよな。ツブシがきくかなと思ってさ」
氷だけになったロックグラスをちろりと舐め、テーブルに置いた。
「別に大学に行かなくても良かったんだ。高校卒業したらバイトでも何でもして早く自立しようと思ってたんだけど、ジジィが大学だけは行っとけって煩くてさ。んで、別に興味はなかったんだけど入学したっていうのが本音」
手酌でとぷりと注いだ酒はおそらく彼の許容量を超えているが、マルコは指摘しなかった。
「いずれ社会に出るんだ。親がそう言ってんだから、甘えるのも親孝行だろい」
ただの金持ちボンボンのお遊びかい、とは言わず差し障りのない言葉で返す。
しかし、会話の続きは意外なものだった。
「ジジィとは血が繋がってねェんだ」
「……そうかい」
ドラマであれば一番緊張するシーンに出てきそうなセリフだったが、マルコがそれを自然に受け止めたのは、自分も似たような生い立ちだからだろうか。
「ルフィはジジィの孫だけど、おれは違うんだ。だから余計に早く出たかったんだけどさ。ジジィも頑固だから、絶対に折れなくてよ。だから大学には入ったけど別に将来なりたいモンなんてねェし、今勉強してることも何の役に立つんだかって思う」
氷をくるくると指先で回す横顔には、普段は見ることがない影があった。
こいつの本当の顔は、こっちかもしれないねい。
少年から青年へと成長する、そのどこか不安定なあやうさとエースの本心が混ざり合っていた。
「勉強しときゃ良かった、ってのは、もうそれが出来なくなってから思うんだよい。今学んでることを将来活かせるかどうかは、おまえ次第だよい」
説教臭かったかねいと付け加えると、黒髪が左右に揺れた。ほんのりと顔が赤い。
「……初めてマルコにケムリンのレポートを教えてもらった時さ、あ、面白いかもって思ったんだ。マルコの教え方が上手いっていうのもあると思うけど、何ていうかそれを仕事で実践してるマルコがカッコイイっていうかさ」
はは、おれ何言ってんだろ、とエースはそのまま言葉を濁し、「それに」と続けた。
「大学行って、『グラディート』でバイト始めたから、こうやってマルコと出会えたしな」
いつも見る太陽そのもののような笑顔とは違う、今までに見たことがないふんわりと穏やかな笑顔。
その言葉と表情がダメ押しをしていることに、エースは全く気付いていなかった。
気がついたときには、マルコの唇はエースのそれに触れていた。
壁掛け時計の秒針が刻むリズムだけが、無機質に響く。
感情より身体が先に動いてしまったことを、マルコは心底後悔した。
「……あんまり可愛いこと言うんじゃねェよい」
本音を語りすぎるこの口も憎い。
「おれ……なんであんたのことが気になるんだろう。おっさんなのに」
黒い瞳が戸惑うように伏せられた。しかしそこに、拒絶の色は含まれていない。
唇は、再びエースに触れていた。静かに触れていただけのそれはやがて深く交わり、水音を響かせ、くったりとエースの身体から力が抜けた頃になってようやく離れた。
「……男と寝たことはあるかい?」
その問いにはまだ先があることが含まれていることを察し、エースの瞳が揺らいだ。
「女は、ある。男は……ねェ」
声が掠れたのは、きっと酒のせいだ。
「そうかい。……どうしたい?」
ずるい聞き方だった。選択肢があるように見せかけ、実は道はひとつしかない。
「わかんねェ。けど、何かおれ……」
エースの瞳に、再びマルコが映し出された。綺麗だねい。マルコは思った。
「あんたを見てると変な気分になる」
「素直な子は得をするよい」 吸い込まれそうだ、と呟き、己の背に遠慮がちに手を回すエースを拒む理由など、マルコにはなかった。
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