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執筆者の写真丘咲りうら

太陽へのオマージュ(2/15)

エースは『グラディート』の近くにある大学の学生だ。まだ教育課程もあるので、アルバイトに入れる日は限られている。  平日は火曜日と木曜日だけで17時から22時まで。土曜日は11時のオープンからクローズの24時ごろまで終日入り、日曜日は11時から22時まで。  本人は平日も全部入りたいと言ったが、学生の本分は勉強と遊びだとサッチが取り合わずこのシフトになった。専門課程に入り、もう少し時間に余裕が出来れば増やせばいいと言ってくれたので、とりあえず今は慣れるためにこの形におさまっている。  エースはよく働いた。大食漢の弟(本人も大概だが)のために食事を作っていると言っているだけあって、簡単な下ごしらえは出来るし、物覚えも良くて手際もいい。目論みどおりエース目当ての客も増え、サッチとしては大助かりだった。

 そしてマルコは、大体このシフト通りに店に現れるようになった。たまに来ない日もあったり、来てもクライアントとの打ち合わせでテーブル席について喋らないこともあったが、エースがいる日はほぼマルコもいる。初めのうちはぎこちなかったが、エースの人懐っこい性格が幸いし、あっという間2人は打ち解けた。

「あー、もう。あの鬼教授!そんな資料なんてどこにもねェって」

 日曜日の晩、翌日のことを考えた客がばらばらと帰り支度を始め、店にはまばらにしか人がいない。エースは来週末に提出期限が迫っているレポートの資料が見つからず、カウンターでまかないを食べながらボヤいていた。

「もしかしてケムリンって呼ばれてるやつか?店でもよく学生がグチってるぜ」  グラスを拭きながらサッチが聞くと、エースはガバっと顔を上げた。 「そー!ケムリン。スモーカー教授ってんだけど、講義は面白いけど何しろレポートが厄介でさァ。ちゃんと授業聞いてないと出来ねェ内容ばっかなんだぜ」 「それが普通だろい」 「えーもう、本写すだけで終わりでいいじゃん」 「それじゃぁ意味ねェだろい。で、何の資料だ」  マルコの問いに、エースがある経済学の本の題名を挙げた。 「あー……うちにあるんじゃないかねい。昔読んだよい。確か著者はクザンとか言ったか」 「それだよ!どこ行っても売ってなくてさー!頼むよマルコ、それちょっと貸してくれよ!」  なぁなぁ、と腕を引っ張るエースに、マルコは猫みたいだと苦笑した。  初対面であんな爆弾発言をしたくせに警戒心丸出しで、そのくせ懐に入るとまるで今までのことはなかったかのようにころりと甘える。

「別に構わねェよい。今からうちに寄ってくかい?」 「マルコの家?いくいく!サッチ、もう上がっていい?」 「おう。行って来い」 「サンキュー!」

 まかないをかきこみ、慌しくバックルームへ着替えに行ったエースを見送り、サッチはタバコを燻らす幼馴染を見た。

「……おまえが人を家に呼ぶなんてねぇ」 「うるせェよい」 「気に入ったのか?」 「さァな」 「可愛くねェの」 「おっさんが可愛くてどうするんだよい」  はぐらかすマルコを茶化すが、乗ってこない。

「ま、イイけどよ。正直エースが来てくれて助かってんだ。変に手ェ出して辞めるとか言わすなよ」

 マルコが返事をする前に「おまたせー!!」と普段着に着替えたエースがバックヤードから飛び出した。

 マルコの住まいは、エースの住まいとは『グラディート』を挟んだ反対側にあった。徒歩10分強の道のりを、エースは自転車を押してマルコと一緒に歩いた。

「そろそろ梅雨に入るねい」 「うん。何か空気が湿っぽい」 「雨は嫌いかい?」 「あー……まぁ晴れの方が好きかな」 「おまえらしいねい」 「マルコは?」 「おれは嫌いじゃないねい。雨は雨なりの過ごし方があるもんだよい」 「そっか」

 取りとめもない会話をしながら、マルコのマンションに着いた。来客用のスペースに自転車を止め、オートロックのエントランスをくぐる。エレベーターにもロックが掛かっていて、1階からは住人に開けて貰うか、エレベーター横のスキャナーに鍵をかざさないと使えないんだよい、と説明され乗り込んだ。止まった階は、マルコの部屋しかないワンフロアの最上階だった。

「す……げ」  思わず声が漏れた。 「もういい年だからねい」  否定も肯定もせず、マルコは玄関の扉を開けた。

 中に入ると、突き当たりには夜景が広がっていた。広いリビングはきちんと整頓されていて、洗練された雰囲気を醸していた。  しかし……

「……シンプルすぎねェ?」

 思わず遠慮のない感想を口走ってしまい慌てて手を押さえたが、出てしまった言葉は戻せない。そんなエースの背中を見ながらマルコは笑った。必要最低限の家具しか置かれていない部屋は、モデルルームから愛想を抜いたようなどこか冷たさを感じるレイアウトだった。

「仕事では腐るほど見るが、案外自分好みのインテリアってのは見つからねェもんだよい」  簡単にその理由を説明し、書庫にしている部屋へ案内した。  壁一面が本棚になっており、そこにはびっしりと資料が並んでいた。その蔵書数は、移動図書館ぐらいなら簡単に上回る。 「うっわ!すごい本の量だな!床抜けるぞマルコ」 「そんな安普請を買った憶えはねェよい」  ある棚を指で辿り、1冊の本を取り出す。 「ほら、これだろい」  エースに手渡し、中を確認させる。 「……これだ!助かったー!これしばらく借りてもいいか?」 「もう読んでないからやるよい。経済学を勉強しているなら、これからも参考になる本だ」 「マジ!?ありがとな!」  そばかすの散った顔が、屈託なく笑う。

 可愛いもんだねい。

 基本的に人間嫌いのマルコは、仕事以外で人と関わるのを避けて生きていた。本音を話すのは敬愛する親代わりのオヤジと幼馴染のサッチぐらいなもので、『色々な事』を円滑に進めるためにそれ相応の対人スキルは持っているが、懐に他人を入れることはなかった。  サッチの指摘どおり、この家に自分以外の人間を入れることは滅多にない。しかし何故、エースを誘ってしまったのか。マルコ本人にも分からなかった。

 ぱらぱらとページをめくっていたエースの眉が、どんどん下がっていく。

「どうしたい」  資料はそれに違いないはずだが、何か不都合でもあっただろうか。声を掛けると、完全に困った顔になったエースが顔を上げた。 「なぁマルコ。これ、全部読んだのか?」 「あ?ああ。まぁ一通りな」  そっか……とエースはしょぼんと顔を下げた。

「……全然、分からねェ」 「……そうかい」

 この著者の本は、経済学を深く学ぶには分かりやすく最適な資料のひとつではあるが、まだ学び始めたものには少々壁が高い。大学生とは言えまだ齧った程度の知識しかないエースにとっては、当たり前のように出てくる用語の一つ一つからして意味不明な単語の羅列に見えるのだろう。確かに2回生にこの資料を題材にレポート提出というのは、いささか厳しい教授だ。

「どれ、少し見てやるよい。レポートのお題は?」  はっと顔を上げ、瞬く間に顔を輝かせたエースがごそごそと鞄から資料を取り出すのを見ながら、おれはこのガキに何をしているのだろうと思った。しかし自分が渡した資料を前にしてあんな顔をされては、助け舟を出さないわけにはいかない。  このだいぶ年下のガキに、かなりペースを崩されている。マルコは、そう自覚せざるを得なかった。

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