ただ待つだけの日々がこんなに辛いものだとは、マルコは知らなかった。
「おーおー。今日もパイナップルが元気にしおれてやがる」
そんな幼馴染のからかいにも反応出来ない。
あれから1週間が経った。マルコは仕事の合間を見て『グラディート』に日参しているが、そこにエースの姿はなかった。
3日目にたまらず雇い主のサッチに聞くと、「全部ケリつけるから、もう少しだけ休ませてくれって連絡があったぞ。って、おまえらまだケリ付いてねェのかよ」と逆に聞かれた。
家まではこなくても、『グラディート』で会えると思っていたのだ。それこそメールの1通でも打てばいいが、そこは悲しいかな大人のプライドと臆病さが邪魔をした。
「少しはエースの気持ちが分かったか。エロパイナップル」
「まだ何もしてねェよい」
「いたいけな青年を食っといてよく言い切れるな、おまえ」
想いは通じたと思っていた。しかし、エースは家に来ない。家どころか、マルコと会える『グラディート』にすら顔を出さない。連絡も寄越さない。
……やっぱり、怖気づいたかねい。
エースは若い。自分が彼の年の頃はその場では雰囲気に流されたが、冷静になってよく考えたら違ってましたなんてことはザラにあった。だから、彼を責めることは出来ない。
次にエースが自分の前に現れるときは、やはり断りの文句を言われる時かねいと半ば諦め、待ち人が来ないカフェを後にした。
そういえば、最近は仕事が入っていない週末はいつもエースと過ごしていた。
セックスをする前も、その後も、その関係は変わらなかった。いや、あの夜の後はマルコのマンションで過ごす週末は多少の緊張感を孕んでいた。流されず、流さず、自制し、マルコは時折見せるエースの無防備な一面にも大人の対応をした。それはそれで、悪くはなかった。だからすっかり忘れていたのだ。何もない週末が、こんなに味気ないものだとは。
家に帰る気にもなれず、マルコはぶらぶらと町を歩いたが特にこれといって興味を惹くものはなく、暇つぶしの本を数冊買うと諦めて家路に着いた。
マンションの外観が見える。エースと一緒に歩いたことが、やけに昔のことのように思えた。
この道を歩きながら、エースは雨は好きじゃないと言った。それは彼が太陽の子だからだと思ったが、どこか鬱蒼とした雨空は彼の本質と似ているからなのかもしれない。
「……?」
エントランスで人影が動き、こちらへ向かってきた。マンションからの逆光でその顔は見えない。
「気になるならメールぐらいしろよ。おっさん」
くせのある黒髪の青年が目の前で止まり、笑った。いつからか焦がれるようになっていた屈託のない笑顔が、そこにあった。
「相変わらず、殺風景だなァ」
遠慮なくそういうと、エースはローテーブルの前に座った。いつもはソファーにどっかりと座るのに、今日はなんだかよそよそしい。
しかしマルコはそれを顔には出さず、コーヒーを出した。砂糖とミルクはたっぷりだ。コーヒーはブラックしか飲まないマルコの家に、いつの間にかエース専用のコーヒーセットが出来ている。そのことに彼は気付いているだろうか。
「そう言うない。今更自分好みのインテリアなんて見つけられねェよい」
「そんなもんかな」
「そんなもんだよい」
そっかぁ、とエースは笑い、ふと真面目な顔になった。足を正し、マルコに向き合った。
「マルコ、まずはゴメン。ずっと連絡しなくて、悪かった」
自分に出来ないことをさらりとやる若者が、マルコは羨ましかった。
そしてその改まった態度に、自分の予感が的中したことも悟った。仕方ないだろう。ここは大人の自分が身を引くべきだ。
「……それがおまえの答えかい?」
「答え?何の?」
「おれとは恋仲になれないってことじゃねェのかい?」
「は?何でそうなるの?」
わけがわからないといった顔で言われ、マルコは混乱した。さっきのは体のいい断り文句ではないのか。
「違うって。これ見てよ」
鞄から出された用紙を手に取った。経済学のレポートで、評価はBとある。
「マルコがいない間にケムリンのレポートがあったんだけどさ、そりゃもうすげーボロボロで、再提出食らったワケ。誰も頼らず自分の力だけでやれって突き返された。その後に公園でマルコと話して、これはこれからあんたの傍にいるために必要な課題だと思ったんだ。だから死ぬ気で頑張った。マルコに言ったら絶対頼っちまうから、言わなかった」
一気にそこまで言うと、エースはすっかり彼専用となったマグを手に取り、熱いコーヒーにふぅふぅと息を吹きかけ口に含んだ。そんな彼を見る自分は、さぞかし滑稽な顔をしているだろう。しかし、目が離せなかった。
「ケムリンに『おまえにしては上出来だ』って言われたんだぜ。あ、これ、あの人の最上級の褒め言葉な。
Aじゃなかったけど、これが今のおれの本当の実力だと思うんだ。まだまだと思うけど、もっと頑張るから」
黒曜石のような瞳に、自分の間抜けな姿が映っていた。
「マルコの側にいたい」
真っ直ぐな、願い。
「……おまえ、意味が分かって言ってんのかい?」
マルコの声は掠れていた。この若者は、どこまで自分を誑かせば気が済むのだろう。
「もちろん。おれはマルコが好きだ。まだガキだから、自分がマルコに釣り合わない事は分かってるけど、これから先マルコの側にいられるように頑張るから。だから」
側にいさせてくれ、という言葉はマルコの肩口に吸い込まれた。
「……参ったよい。ガキがなんて殺し文句を使うんだ」
思わず抱きしめた手を緩め、その顔を見つめる。まるでいたずらに成功したかのような得意気な表情だ。
「臆病なおっさんには出来ねェことだろ?」
「違いないねい」
クスクスと笑いあい、額にキスをした。
「てっきり体のいい断り文句でも吐かれるかと思ったよい」
「まっさか。せっかく捕まえたのに、そう簡単に離すかよ」
「おれの告白には答えなかったじゃねェかい」
「え? 気にしてた?」
「当たり前だ。傷心を抱えて家に帰ったよい」
バツが悪そうに視線を逸らし渋々白状する年上の男に、エースはその姿を想像して思わず吹き出し、慌ててその身体を離して座りなおした。
「ごめん……。だって、あそこで言っちまってたら、おれ絶対マルコに頼ってた。あのレポートだけは自分の力でやりたかったんだ。結果が良くても悪くても納得いくまでやって、そんでマルコに今のおれを認めて欲しかった」
部屋には無機質な時計の秒針と、仕事をしているときの表情のマルコが手にしたレポートの紙擦れの音だけが響いた。その時間は気が遠くなるほど長く感じたが、おそらく時間にすれば数分の出来事だった。
やがてマルコがレポートから目を離し、柔らかな視線をエースに向けた。
「難しい課題だ。一人でよく頑張ったねい。これはおまえの糧になる。今の頑張りが、5年後、10年後のおまえに必ず戻ってくるよい」
そう言い切ったマルコに、エースはうっかり涙ぐみそうになったのを慌てて堪え、笑った。
「へへ……サンキュ」
スモーカーに評価してもらえたことも嬉しかったが、マルコに褒めてもらえたことがエースにとっては何よりも嬉しかった。今までに感じたことがない、ほんわかとした温かい何かがエースを満たした。
「だがおまえは勘違いしてるよい。認めるも何も、おれは今のおまえが欲しいんだ。気負ったり飾ったりしねェ、そのままのおまえがな」
静かなマルコの声に、エースはくしゃっと顔を歪めた。
マルコは、今まで何となく過ごしていた日常に意味を与えてくれた。エースが自分の存在意義を認めて欲しいと初めて願った相手だ。その彼が自分の全てを肯定してくれたことに、エースは心の底から安堵した。そしてとうとう耐え切れず、ぽろりと大粒の涙を零した。
「ごめん。何かあんたの前だと、すげェ自分が弱くなった気がする」
「謝ることはねェよい。惚れたやつが自分にだけ弱みを見せてくれるなんて嬉しいじゃねェか」
そのどこかおどけた言い方に、エースはくふふと笑った。
頬に手を添えられ、涙を拭われた。
「……で? おれはこの部屋に来るときは、それなりに覚悟をして来いと言ったはずだが?」
唐突に色を含んだ青い瞳を、エースは静かに見つめ返した。今までに見たどの表情よりも穏やかで温かなものだった。
「連絡をしなかったのは、レポートにちゃんとケジメをつけたかったからだ。マルコこそ、こんなガキに本気になる覚悟はできてンのか?簡単に別れるっつっても、おれ多分しつこく食い下がるぜ?」
黒い瞳の奥に怯むことなく灯ったその色に、マルコもついに覚悟を決めた。
「いい度胸だ。もう後戻りはさせねェよい」
綺麗だねい。自分を見つめる瞳に、マルコは思った。 あの夜よりも遥かに満たされているその幸せを噛み締めながら、マルコは静かに唇を重ねた。
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