甘い香りを纏ったその花は、一夜限りの美しさ。
慎ましくひっそりと、だが絢爛に主張する。
「甘い匂いがする」
元・野良猫が、まるで犬のように夕闇に包まれたモビーの甲板を嗅いで回っている。戦闘となれば真っ先に飛び出て焼き尽くしてしまう末っ子は、普段も好奇心旺盛に母なる船を探検している。どこかで騒ぎがあれば駆けつけ、魚が釣れれば率先して厨房へ運び、甲板で肉なんて焼いてようものなら、待ちきれないとばかりにかぶりつきで見学して出来上がりを待ちわびている。だがこの香りの正体が何なのかは、突き止めるのに少々時間がかかった。彼は基本的に「花より団子」なので、仕方ないだろう。
「わ、でっかい花だな」
モビーの中央に位置するニューゲートの椅子の横に置かれた鉢植えを見て、エースが感嘆を漏らした。鉢には赤子の頭ほどの大きさの白い花が二輪咲き誇っている。常緑の葉からすっと伸びた茎に付いた真っ白なそれに、しばし見惚れた。淡く香る正体がその花から出ていることにもやがて気が付き、「あ、これか」と呟いた。
「やっと気づいたか。この食いしん坊め」
まるで番をするように横に座っていた美丈夫がくすりと笑った。てっきり食べ物だと思っていたエースは「へへ」と笑って誤魔化し、差し出された兄のキセルにそっと火を点けた。思えばここまでくるのにも随分と時間がかかった。イゾウに「火を貸せ」と言われてたので蛍火を投げたのに「キセルに炎を近づけるんじゃねェ。葉だけに点けろ」と理不尽に怒られたのは一度や二度ではない。タバコを吸わないエースにはキセルの使い方などさっぱり分からないが、特訓(?)の成果はいつの間にか実を結び、以前なら決して触れさせてもらえなかったとっておきのキセルにも火を点けることを許されている。
「今日は上等なヤツだ」
鼻腔をくすぐる僅かな香りに、エースが断言した。殊更にエースの事を可愛がっている16番隊隊長は「まァな」と口の端を上げた。
「こんなにベッピンさんに咲いてくれりゃァ、葉の一枚や二枚、奮発もしたくなるさ」
イゾウは視線を花に戻し、「月下美人って言ってな。年に数回、たった一晩しか咲かない花だ」とエースに教える。そう言えば、エースはこの鉢植えに見覚えがあった。イゾウが暇を見ては丹念に世話をし、冬島海域を通る時は必ず彼の部屋の片隅に置かれていた鉢植えのうちの一つだ。葉っぱばかりの鬱蒼とした鉢植えのどこがいいのかさっぱり理解できなかったが、このような大輪の花をつけるのなら手をかけるのも頷ける。
「この鉢さ、あと2つなかったか?」
「よく見てるな。ひとつはオヤジの部屋、もうひとつはナースの部屋だ。株分けした兄弟だからか、皆一斉に咲くんだ。面白いもんさ」
一晩だけのものだから皆に見せたいじゃないか、とイゾウは笑う。クールな反面、こういう細やかな気配りが出来る兄が、エースは大好きだ。
雲一つない空には、ぽっかりと月が浮かんでいる。ああ、そう言えば今日は「チュウシュウノメイゲツ」とやらだ。横で静かに杯を傾けるイゾウは、月も花もよく似合っていた。
「お、咲いたか~」
雰囲気をぶち壊して割って入ってきたのは、リーゼントがトレードマークのモビー随一のお調子者だ。ジョッキを片手にご機嫌でエースの横に「よっこらせー!」と騒々しく座る。
「ンだよサッチ。うるせーな」
「ヒヒ、食欲坊主が花見と月見なんて、明日は塩水でも降ってくるんじゃねェの?」
末っ子の文句などまともに聞かない4番隊隊長はちらりと花を見やり、目元だけでふっと笑った。
「相変わらず変な花だよなァ。一晩で枯れちまうのも空しいし、サボテンの仲間だってのに棘のひとつもありゃしねェ」
さっきの視線は気のせいだったのだろうか。どこか絡み口調のサッチに、エースの眉が跳ね上がった。その気配を無視してサッチはジョッキを傾け、中身を一気に空にする。
「もうすぐ上陸だぜ~。月見に合わせて咲くなんてシャレてるが、おれは花より酒とオネーチャンだなァ。次の花街が楽しみでしょうがねェ」
再び「よっこらせー!」と立ってふらふらと千鳥足で部下のところへ行くサッチの背中に向けて火の玉を投げようとしたエースを、イゾウが笑って「よせ」と止めた。
「だって! イゾウはあんなこと言われて悔しくねェのかよ。イゾウはサッチのこと」
「弟が生意気な口を利くもんじゃねェよ」
「でも!」
「ふふ。あいつはああいう奴さ。おれだって分かってる」
「なのに、……好きなのか?」
「おまえは直球だねェ」
真っ直ぐすぎる弟に苦笑し、イゾウは再びキセルを燻らせた。
「イゾウ、あんなののドコがいいんだよ」
「さァな。おれにもわからんよ。それが分かれば、恋に苦労する人間なんて出てこないだろう」
ぐぅと黙ってしまった末っ子を見て、イゾウは美しく笑った。
「サッチは、花をないがしろにしてるわけじゃないさ。月下美人は、ちゃんと世話をしてやれば際限なく増える。だが、いくらモビーが広いといっても限りがあるからな。増えた株をクルーの家族だったり所縁のある人に送る手配は、全部あいつとマルコがやってくれてンだ」
「それ、絶対九割ぐらいマルコがやってるって」
「そうかもな。でも大事にしてくれそうな人を選定してるのは、サッチだったりするんだよ」
不器用だな、とエースは思った。イゾウにしてもサッチにしても、不器用だ。サッチはオープンに見えて心根は隠すタイプなので、実はイゾウ以上に何を考えているか分からない時がある。聡いサッチがイゾウの好意に気付いてないはずはないのだ。なのに何であんなにつれないのだろう。イヤならイヤとはっきり断ればいいのに。大人になるというのは面倒だ。
「でも、なんかムカつく」
素晴らしく子供らしいボキャブラリーでサッチを罵る黒髪を、イゾウは愛しそうに撫でた。
「おまえがそう思ってくれるだけで十分さ。いざとなれば、おれがあいつの頭に鉛球をブチ込んで思い知らせてやるよ」
冗談とも本気ともつかない笑みを浮かべ、イゾウは「夜風に当たってくる」と立ち上がった。つと、足を踏み出したところで「ああ」とエースを振り返る。
「おっさん相手の恋愛は面倒だぞ」
エースが投げかけられた言葉の意味を考えながら、彼と彼の後ろに浮かぶ月のコントラストに見惚れてる間に、麗しの16番隊隊長は行ってしまった。
「ガキに余計なことを吹き込むんじゃねェよい」
左舷に寄りかかり月を眺めていた1番隊隊長が、イゾウの通りすがりに苦言を呈した。
「ふふ。あんたの地獄耳には恐れ入るよ」
一升瓶を掲げる仕草に頷いたマルコに、袂から出した盃になみなみと注いで手渡す。杯を傾けるマルコの傍らで、イゾウは心地よく頬を撫でていく風に「ああ、いい風だ」と静かに天を仰いだ。
「綺麗に咲いたねい」
「ああ。一度寒波に晒してしまったからどうなるかと思ったが、何とか持ちこたえてくれた」
花を愛でるイゾウのなんと美しいことか。口と銃口さえ開かなければ、そこらの美女など霞んでしまう。その美しさにひけを取らない月下美人が、互いを引き立てていた。純白で、孤高で、誇り高い。そしてぞっとするほどの美しさを持つその花は、どこかイゾウに似ている。
「この花が終わったら、手入れかねい」
「そうだな。だいぶ育ったから、さし木にするつもりだ」
「二つ先に上陸予定の長老が欲しがっていたよい。亡くなったつれあいが好きだったそうだ」
「それは光栄だ。ぜひ分けさせてもらうよ。ありがとう」
「礼なら、長老とやり取りをしているサッチに言えよい」
「……」
イゾウはサッチのこういうところが憎らしい。いっそ拒絶してくれれば諦めもつく。それなのに気付かないところで気付く彼の優しさが、イゾウの心をますます蝕んでいく。
「おっさんは面倒だな」
「おまえもじきにおっさんだよい」
「時の流れに逆らいはしないさ」
差し出された盃を再び袂へしまい、イゾウは手を上げてマルコの元を離れた。ゆるりと甲板を歩きながら、国の旧い歌を口にする。
年月は わが身に添へて 過ぎぬれど 思ふ心の ゆかずもあるかな
人は必ず衰え、いつかその命を終える。だが恋心というものは衰えを知らず、中でも秘めた心は年月を増すほど強くなっていく。
諦められたらどれほど楽だろうと思っても、それは全く意味をなさない。なぜならば、想いというのは年月を重ねることすら愛しく、更に掻きたてられるものだからだ。
海賊などという生業をしている以上、まともに生を終えるとはこれっぽっちも思っていない。
老いが身を滅ぼすか、志半ばで尽きるか。しかしそれらも全て受け入れ、命が果てるその瞬間まで、彼を愛そう。
(おわり) -------------------------------------- 中秋の名月2015
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