「……ったく。野郎の一人暮らしでこんな風呂があるなんて、ボンボンってのはいい暮らしだよなァ」
大人二人が十分に足をのばして入れる湯船に浸かりながら、サッチは妬んだ。今でこそ多少ゆとりのある暮らしが出来ているが、数年前までは借金の返済に追われてゆったりと風呂にも入れなかった生活を送っていた彼には恨み言の一つも零れるような羨ましい環境だ。
「あんただって、十分その恩恵に与ってるじゃないか」
「ま、そうですけどね」
同じ浴槽から返ってきた理路整然とした反論を、サッチは素直に認めた。
カフェ&バル『グラディート』を営むサッチと、和裁士のイゾウが恋仲になって3年が過ぎた。付き合うまでは色々あったが、互いに大人で十分に理解をした上での交際なので大した喧嘩もなく心穏やかに過ごせている。『グラディート』の経営は順調で支店を出すことを視野に入れ始めているし、一方のイゾウは確かな技術と端麗な容姿(これを言うと嫌がるが、相乗効果を生み出していることも事実だ)で着実に仕事の幅が広がっていた。先ほどのサッチの暴言だって、長い付き合いの中で築いた信頼関係があるからこそ聞き流せる言葉だ。
「でも、久しぶりだよなァ。休みが重なるなんてよ」
「ああ」
家業でもある踊りの講師も続ける傍ら、各地のコンベンションに呼ばれるようになったイゾウは工房を空けることが増え、サッチと休みが合うことも減ってしまった。だがそれでも彼らの関係性は揺るがず、回数が減ってしまった二人の休日をより大切にするようになった。どこへ行くわけでもなく二人で過ごし、サッチの試作品を一緒に食べたりすることが何よりの楽しみになりつつある。特に今のように昼日中から入る風呂は格別だ。
風呂が好きなイゾウは、浴室には並々ならぬこだわりを持っていた。ビーンズ型の浴槽は家庭用の最大サイズで、大の男2人が入っても狭さを感じることはない。「和裁士のくせに風呂は洋式かよ」というサッチの意地の悪い指摘も「手入れがしやすいだろう」と一蹴し(それ以前に建物自体が洋風だ)服装同様、自分のスタイルを貫いていた。一方のサッチはイゾウのあまりの長風呂に何度心配させられたことだろう。風呂が何よりのリラックスタイムだと知ってからは、時間があればこうして一緒に入るようにしている。セックスをするわけでもなく、ただ湯に浸かって話をしていれば、何となく話しにくいようなこともぽつりぽつりと話せるようになる。水の力というのはなかなか偉大だ。
「そう言えば、エースはあれからどうなったんだ?」
「ああ、やっぱり留学するらしい」
「そうか」
『グラディート』でアルバイトをしているエースも、もう3回生だ。そろそろ就職のことを考えなければという時期に突然「卒業を早めて留学する」と言い始めたのだ。サッチも驚いたが、何より驚いたのがエースの恋人であるマルコだ。卒業したら自分のコンサルタント会社で働くものだと思っていた彼には寝耳に水だった。若いエースの成長を応援したいという気持ちはもちろんあるが、手元に置いておきたいという欲もある。いい歳したおっさんの葛藤は見ていて楽しかったが、「エースの芽をおれが摘み取るわけにはいかねェよい」と、折れたらしい。
「支店の打診もしたんだがよ、帰ってきてからにしてほしいって言われちまった。しかも、それもシェフは別で雇って経営に専念したいんだってよ」
「贅沢なガキだな」
「ヒヒッ。ま、あいつはそう言うと思ってたよ」
最初はオーダーもままならなかったエースも店の全てのことが出来るようになり、そろそろ2号店を出してそこを任せようと思っていたサッチの計画も立ち消えた。全く若いというのは愚かで無鉄砲で羨ましい。
「シェフのアテなんてあるのか?」
「エースの弟の友達でな。うちにもよく来る子だ。高校を卒業して、じいさんのところで修行してるらしい」
「ああ、あの金髪の子か」
「そ。サンジはいい子だし腕も確かだから、別にいいんだけどよ」
「それにしていきなり経営者とはね。大したもんだ」
「まったくだ。けど、1回生の頃はレポート相手に唸ってたやつが卒業を早められてんだから、まぁあり得ることかもな」
「しばらくマルコが荒れるな。あと、エースが戻ってきた時が見ものだ」
「見もの?」
小首をかしげるおっさんに、美男子はふふと笑った。
「エースも最近男ぶりを上げてきてるからな。ポジションが変わるのも時間の問題かもな」
「ぶっ、マジかよ」
その時のマルコを想像して、二人でゲラゲラと笑った。彼とて恋人の飛躍を望んでいないわけではないが、それでも寂しいだろう。しばらくは相手をしてやるかとからかう材料を手に入れたサッチはさらに機嫌がよくなった。
「ところで、今日の夕飯だけどよ。どうする?」
「和食がいい」
きっぱりと言い切った美丈夫に、オーナーは「だろうな」と返した。ランチメニューでは時折登場する和食だが、カフェという店柄、夜用のメニューはあまり作らない。だがイゾウはサッチが作る和食が大好物だった。
「ふろふき大根と、かぼちゃのそぼろあんかけ、鯛のあら炊きと、揚げだし豆腐。それとごはんとお味噌汁」
「そんだけの品数作ろうと思ったら、風呂上がったら休めないんですけど?」
「あんたなら、ちゃちゃっと出来るだろ」
「同じこと言ったら怒るくせによー」
いつだったかコックコートがほつれたことがあり「ちゃちゃっと繕ってくれよ」と渡したら大層機嫌を損ねられた。確かに技術を生業としているイゾウに対して失礼な発言をしたと反省したが、その逆は許されるらしい。もちろん、サッチ限定だが。
「しょうがねェなァ。サッチさんが腕によりをかけて作りますよってんだ」
「ふふ。楽しみにしている」
ふと、イゾウがサッチの手を握った。
「……あんたが作る料理が、好きなんだ」
ああ、この男は疲れているのだ。何でもないように装っているが、心身ともにくたくたに疲れ切っている。それが長風呂と自分の手料理で少しでも楽になるのであれば、安いものじゃないか。この場でなければ出なかっただろう発言に、サッチの心が震えた。
握られた手をそのまま引き寄せ、色白だが職人の男らしい指先にありったけ気持ちを込めて唇を落とした。
「おれも、おまえさんの仕事してる姿が好きだぜ」
「サッチ……」
甘い沈黙が流れる。この場に相応しくない感情を誤魔化すように、サッチは立ち上がった。彼には休息が必要だ。
「……さてと、おれはそろそろ上がるが、おまえさんはどうする?」
「もう少し入ってる」
「そっか。寝るんじゃねーぞ」
「サッチ」
脱衣所へ向かうサッチを、イゾウが呼び止める。
「ん? どうした」
「飯食ったら、セックスしよう」
「……おう」
同じ気持ちだと分かって安堵する。焦らなくていい。まだ休暇は半分残っているのだから。
(おわり)
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