「マッチ、マッチいかがですか」
ただ冷たいだけの風はやがて雪を呼び、地面がうっすらと白く染まった大みそかの夜のことでした。この季節にはそぐわない薄い服を来た一人のおっさんがマッチを売っています。靴はすりきれてボロボロで、雪が降るほど寒いのに、コックコートの上には上着の一枚も羽織っていません。フランスパンを乗せたようなリーゼントヘアに申し訳程度の布を被って寒さをしのいでいる彼の名は、サッチ。生まれたときからずっと独りで、それでも何とか仕事を見つけて今日まで生きていました。
「はァ……。この街もダメか」
何日も足を棒にして売り歩きましたが、ライターが普及しているこのご時世にマッチは時代遅れで、全く売れません。今日は今月分の借金を払う期限です。これを払わなければ、サッチは男娼へ売り飛ばされてしまいます。こんなおっさんを男娼にして何が楽しいのか分かりませんが、世の中には色々なニーズがあるのだと黒ひげの胴元が下品に笑いながら言っていました。
レンガ造りの街並みの窓からは、あたたかな光が零れています。夕飯のいい香りと、賑やかな子供の声。全てサッチが持っていない、どれだけ望んでも手に入れられないぬくもりでした。ずっと独りで生きてきて、これからもきっと独りです。生きる希望なんてこれっぽっちも持てないサッチにとって、明日が来ることはつらいだけでした。
「……寒ィなァ」
靴には雪がすっかり染み込んで、かじかんだ足はずっと前から感覚がありません。このまま死んでしまうのと、男娼に売られて生きながらえるのと、一体どちらが幸せなんでしょう。
寒さに耐えきれなくなったサッチは家のかげにたたずみ、持っていた籠に掛けた布をめくってマッチを取り出しました。ワノ国で作られたらしい小さな箱には、キモノを着た女性が火の点いたマッチ棒を手にしています。彼女に倣って一本取り出し、シュッと擦って火をつけました。あたたかい炎がサッチの周りを明るく照らします。まるでストーブの前に座っているようです。
「ああ、あったけェなァ」
ですが、短いマッチはあっという間に燃え尽きてしまい、寒さと暗さが再びサッチを包みます。もう一本取り出し、また火を点けました。するとどうでしょう。目の前には豪華なご馳走が並んでいます。サッチは次々とマッチを擦りました。マッチが燃えるたびに、煌びやかなクリスマスツリーや楽しそうな笑い声が見聞こえます。ある時は海賊船に乗っていました。色んな人が乗っています。不死鳥に変身する妙な頭の男や、全身が炎になる青年(とてもあたたかそうです)、魚人もいます。女性に見紛うほどの美しい男性は両手にピストルを持っていてとても物騒です。過酷な旅でしたが、それでも彼らは笑っていました。
あいつらの仲間になりてェなぁ。
サッチは凍えてろくに動かなくなった手で、マッチをまとめて擦りました。すると大きく燃えた炎の前に、立派な白ひげを生やした大男が立っていました。
『グララララ。おれの息子になれ』
差し出された手を取れば、きっとサッチはこの世から消えてしまうでしょう。それでもサッチは平気でした。生きていても、何もいいことはないのですから。
手を伸ばした瞬間、強い風が吹いてマッチの火は消え、大男も消えてしまいました。ああ、もう少しで楽になれたのにと落胆するサッチの横に、誰かが立っています。
「男娼か」
顔を上げると、大層美しい男が立っています。マッチ箱から出てきたようなキモノ姿で、髪の毛はきちんと結い上げ、唇には真紅の紅をひいています。ただ体躯はりっぱな男性のそれで、言い知れぬ色香がありました。
「……まだ男娼じゃねェよ。時間の問題だけどな」
こんな哀れなおっさんを見て、何故男娼と判断できるのでしょうか。世の中というのは本当に分かりません。あんたの方がよっぽど男娼らしいと言いかけましたが、さすがにそれは言いすぎだと思い口を閉じました。死んでしまうのと殺されてしまうのでは、雲泥の差があります。
男は懐からキセルとマッチを取り出し、慣れた手つきで火を点けました。凍てついた空に、明るい炎と煙が立ち上ります。彼が持っているマッチにも、キモノ姿の女性が描かれていました。
「故郷のマッチでな。これが最後の一箱だ。あんたが持っているマッチを全部貰おう」
「そりゃどうも。好きなだけ持っていってくれ」
せっかくのお客でしたが、サッチはもう生きる気力を失っていました。今日を生き延びて一体何になるのでしょう。どのみち売られてしまうのであれば、死んでもいいからあの大男のそばに行きたかったと、サッチは嘆きました。
「随分と投げやりだな」
「どうでもいいだろ。あんたには関係ない」
「関係ない、ね。イヤなら逃げ出せばいいだろう」
「それが出来れば苦労はしてねェよ」
男がキセルを燻らせながら色々と聞いてくるので、サッチは聞かれるがままにぽつりぽつりと身の上話をしました。サッチだって、好きでこんな環境にいるわけではありません。今は若いころに一度助けてもらった黒ひげの元で働いていますが、どれだけ働いても借金が増える一方で、今の生活から抜け出せずにいました。全ての話を聞き終えた男は刻み葉をとんと落とし、声をあげて笑いました。
「何がおかしいんだ」
「借金なんてあるわけがないだろう」
「けど、この証書が」
サッチが懐から出した紙には、一生働いても返せないような金額が書かれています。男はその紙を取り上げふんと笑うと、マッチで火を点けて燃やしてしまいました。サッチを縛り付けていた紙は、あっという間に雪がちらつく街に灰となって消え去りました。
「四方八方に手を尽くして探し出したらこの様だ。あんなくだらない男に引っかかりやがって。あんたは天涯孤独なんかじゃねェよ」
「嘘だ」
「嘘なもんか。おれたちのオヤジも、あんたに会えるのを楽しみにしてる」
「オヤジ?」
「白ひげと呼ばれている、とても大柄な人だ。勇敢な人格者で、家族は皆オヤジを尊敬している」
燃えるマッチの前で「おれの息子になれ」と言ってくれた人物に違いありません。そう言えばこのやたら美しい男も、先ほどの海賊船で銃を振り回していた人に似ています。
「……じゃぁ、これも夢ン中か。おれはやっぱり死んじまうんだな」
これもきっと夢なのです。そんな都合がいい話なんて、そうそうあるわけがないのですから。
「勝手にオヤジやおれを殺すな。あんたも生きるんだ。オヤジのところへ行くぞ。立て」
差し出された手は確かにあたたかく、力強いぬくもりでサッチを引き上げました。正面から見た男は、真っ直ぐサッチを見上げています。ですが哀れなマッチ売りは、そのきれいな瞳から目をそらしました。
「……ティーチが追いかけてくる。おまえさんに迷惑をかけるわけにはいかねェよ」
「はん。あんな雑魚。おれが脳天をブチ抜いてきた。あんたはもう自由だ」
「へ?」
「今まであんたにしてきた仕打ちを、鉛玉一つで帳消しにしてやったんだ。安いものだろう」
繋がれたままの手から、じわじわと喜びが沸き上がります。しれっと物騒なことを言っていましたが、サッチの耳には届いていませんでした。
「どれだけ探したと思ってやがる、サッチ」
抱きしめられたあたたかさに、サッチは声をあげてわんわん泣きました。寒い雪が降る今年最後の夜は、サッチに祝福をもたらしました。
新年の朝。街の一角には、空になった籠と燃やされたマッチがありました。街の人は、可哀想なマッチ売りのおっさんがとうとう男娼へ連れていかれたのだと憐れみました。
一方その頃、サッチは清潔なベッドで綺麗な男と一緒に夜を明かしていました。結果としては掘られてしまったわけで、身体のあちこちがじんじんと痛みますが、それでもサッチは幸せでした。人の幸せなど、他人には分からないことなのです。日が昇れば、新しい家族の元へ行きます。その前にやっと手に入れたあたたかな幸せをもう少し噛み締めようと、サッチは横で身じろぐ美丈夫を壊れ物を扱うようにこわごわと抱きしめ、再び眠りにつきました。
(おしまい) ------------------------------------
2017.1.8 GLC8 無配
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