「ん? こんな店、あったか?」
営業回りの途中に通りがかった道の奥に見慣れないのれんを見つけ、サッチは足を止めた。路地に入り店の前に立つと、真新しい紺色の暖簾には「まつよい」と染め抜かれており、右下には漢字で「待宵」とある。中からはふんわりと漂う香りに誘われ、サッチは今日の業務を終了してここで早めの夕飯をとることにした。
「らっしゃい」
出迎えたのは崩した日本髪に紅をさした風変わりな板前だった。胸元を見る限りは男性なので一見奇抜な出で立ちだが、不思議と違和感はなく似合っている。
(こりゃまた『ベッピンさん』だこと)と心の中でコメントしてカウンターに座り、出されたおしぼりで手を拭きながら「とりあえず生」と魔法の呪文を唱えて店内を眺めた。目の前のカウンターには大鉢に入れられたお惣菜が所狭しと並んでいる。肉じゃが、出し巻き卵、小松菜のお浸し、生麩田楽、五目豆、鯵の南蛮漬け。小料理屋というだけあって小鉢が中心のメニューらしい。見るだけで心が和む。
兎にも角にも、まずはビールだ。出されたジョッキの半分ほどを一気に流し込む。サッチは酒に弱いが、この一杯だけは何物にも代えがたい。
「何にします?」
切れ長の瞳と目が合い、意味もなくドキリとする。こらこら、と自戒しながらもう一度カウンターの上を眺め、「じゃぁ、白和えで」と返事をした。意外なオーダーだったらしく板前はひょいと眉を上げたが、すぐに「あいよ」と返事をし、小鉢に盛り付けた。
同年代のマルコには「今から新しい店を探すなんて面倒だよい。馴染みの店が数件あればいいだろい」と呆れられているが、営業で各所を回るサッチは飲食店の新規開拓に余念がない。仕事を円滑に進めるためには美味しい食事はいいアイテムだ。しかしそれ以上に、サッチは単純に色んな店を回って食べるのが好きだった。つまり、趣味と実益を兼ねている。
「いただきまーす」
差し出された備前焼の茶色とのコントラストが美しい白和えに箸をつける。丁寧に水切りされた木綿豆腐の白に、ほうれん草の鮮やかな緑。控えめに見え隠れする橙色は、人参ではなくスライスされた柿だ。口に入れてよく味わい、サッチはにんまりとした。この小料理屋は当たりだ。
「こいつァ、手が込んでるな」
「お分かりですか?」
「もちろん。白和えってのは、真面目に作ったら手間がかかるからな。これ、ごまも擦りたてだろ? 最近はこういう店でも混ぜるだけの白和えの素とか使ってる所が多いんだ。どこに行っても同じ味がする」
これはうまいと箸を進めるサッチを、板前はじっと見つめていた。その視線に気づき、サッチは「ん?」と顔を上げた。
「……最初のオーダーは、大抵看板メニューの肉じゃがか南蛮漬けだ。最初にそんな地味なオーダーをしたのはあんたが初めてだ」
突然口調が砕けたが、別に怒っているわけではないらしい。つんと澄ました表情なので分かりにくいが。
「地味なモンほど手間がかかるってのはお約束だぜ?」
サッチの言葉に、板前は澄ました表情を崩し、破顔した。
それを見たサッチは(あ……おれヤバいかも)と感じたが表に出さず、「これだけで終わるかっての。カウンターに乗ってるやつ全部くれ」とオーダーした。
待宵とは、十五夜の前日の月のことを表す言葉だ。月が好きならば、「十五夜」や「十六夜」などその手の名前はいくらでもあっただろうに、その微妙な「ハズし方」とイゾウと名乗った板前が気に入ったサッチは、割と頻繁に「まつよい」に通うようになった。料理は得意な方だが一人暮らしで振舞う相手が特にいるわけではないし(寝食さえ忘れて仕事に没頭する腐れ縁に時折食わせるぐらいだ)、たまには誰かが作ってくれた料理を食べたくなるのが人情というものだろう。それが美味しいとなれば通わない理由はない。食事の旨さもさることながら、通い詰めるうちにイゾウの人となりに触れることにもなった。見た目以上に男気がある彼は、心を開くと思ったよりも気さくで話しやすい、人間的な魅力のある男だった。
「あんた、お仲間だろ」
すっかり「まつよい」の常連となったサッチが、明日の休みをいいことに店じまいまで居座っていたある晩。さっさとのれんを閉まって外の電気を消したイゾウは、店に戻るなりそう切り出した。
「あ? ……ああ、そういうことね。やっぱりおまえさんもそうか」
ご同輩というのは空気で何となくわかってはいたが、浅い付き合いでそこまで踏み込むと地雷を踏む羽目になるので、その話題には触れずにいた。
「まァね。けど、もうヤメた」
「ヤメれんのか? それって」
「女には興味ないさ。ただもう、恋愛はコリゴリだ」
イゾウの意味深な言葉に大いに興味があったが、深追いはしなかった。
「……ま、色々あるよな」
サッチはそこで話を終わらせたつもりだったが、熱燗を持ったイゾウが自分の隣に座って手酌を始めたので、何となく続けた。
「けどそんだけ美人さんなんだ。モテるだろ」
「そこそこはな」
「ぶっ……! 嘘でも否定しろよそこは」
「人を見てくれだけで判断する輩ばかりでうんざりだ」
「……あ~。なるほどね」
先ほどまでカウンターの一席を陣取り、イゾウを熱心に口説いていた客のことだろう。あまりに露骨な誘いにサッチも口出しをしようかと悩んだが、ここはイゾウの店だ。常にそちらに注意しながらも、彼に迷惑がかかってはいけないと思い黙っていた。
「恋愛なんて面倒だ。この店があればそれでいい」
「よっぽどヤな目に遭ったんだな」
「報復はしたさ。そのおかげで店が持てた」
「おいおい、さらっと恐ろしいことを言うなよ」
「事実だから仕方ない。それに金だけはあるやつだったからな」
「なるほどねぇ」
イゾウの猪口に酒を注いでやる。サッチもご相伴に与りたいところだが、これ以上飲むと家に帰れない。
「けど、恋愛ってのは人生のスパイスだぜ? そこまでストイックにならなくてもいいんじゃないのか?」
「あんた、特定の相手は持たないタイプか?」
「いや? こう見えて一途だ。だがその相手がいなくてね。残念ながら空回りの日々だ」
「あんたらしいな」
「どういう意味だよ」
ぐいっと猪口を開けて、サッチにお代わりを促した。イゾウは相当酒に強いらしい。
「今日みたいな客は珍しくない。下手したらノーマルな男にも声を掛けられる。『おまえなら抱ける気がする』ってな」
「失礼だなァ。こんなに男気があるってのに」
「慣れてるから別に構わないさ。ただ仕事の邪魔をされるのは本当に腹が立つ。客商売だから言えないがな」
淡々と飲み続けるイゾウを眺めているうちに、サッチに名案が浮かんだ。
「……ご提案なんですが」
突然仕事モードの口調になったサッチを、イゾウは訝しげに見た。
「よかったら、ボディーガード雇わない? おれ、営業で口先は得意だから今日みたいな客がいたら適当にあしらうし、毎日いたらそれだけでも抑止力にならないかなァとか」
口実があればこの店に毎日通ってもおかしくないし、という本音は隠した。
切れ長の目がじっと見つめる。しまった、余計なことを言ってしまっただろうか。
「……報酬は?」
「そうだなァ。ビール一杯と小鉢一つでどうだ?」
「随分安いな」
「おすすめです」
真顔で言いきるサッチに、イゾウはとうとう吹き出した。
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