「……ヤっちまったァ」
てきぱきと替えられた真新しいシーツの上で、サッチは枕に顔を埋め込んで唸った。
「何だよ。後悔してんのか?」
すっきりした顔で水を飲むイゾウをぎっと睨んだ。
「……してねェから困ってんだろうが」
「あんた、変わってんな」
「おまえさんに言われたくないわよ!」
いつもの調子に戻ったサッチを見て、イゾウは「あーあ、戻っちまった」と残念そうに呟いた。
「何がだ」
「おまえ"さん"だよ。あんた、マルコとかエースとか、気を許した人には"おまえ"って呼ぶのに、そうじゃない人はみんな"おまえさん"
って呼ぶじゃん。せっかくおれもそっちになったと思ったのになァ」
全く無自覚だった癖を指摘され、サッチは先ほどの怒りも忘れ「え? そうなの?」と間抜けに聞き返した。
「やっぱり気付いてなかったのかよ。マルコとエースと四人で話して飲んでても、いつまでたってもおれだけ"おまえさん"でさ。すげー疎外された気分だったぜ」
言ってる内容もだが、心なしか口調まで幼くなったイゾウに、サッチはぶはっと吹き出した。
「な、なに。そんなこと気にしてたわけ?」
「そりゃ気にするだろ。いつまで経っても気を許してもらってねェと思った」
「それを言ったら、おまえ……、だってずっとよそ行きのベッピン姿で来てたじゃねェか。あれだって、おれと距離置いてたんじゃねェのか?」
「だって、あんたはノーマルだし、見た目だけでも綺麗な方がいいかなって」
「見てくれで好きになったんなら、こんなことまでしてねェっての。ったく、年下の癖に変な気ィ遣いやがって」
様子を伺うようにそろりとベッドの淵に顎を乗せた黒髪をくしゃくしゃとかき回した。
「ほら、おっさんは疲れたの。少し寝かせろ」
「いいぜ。おれも寝るから、腕貸して?」
「は? それっておまえが貸すんじゃねェの?ポジション的に」
「体格的にはあんたの方がゴツいじゃん。腕なんて貸したら、折れる」
「おまえね」
いそいそとベッドに潜り込んだイゾウが満足気なため息をついて落ち着いた場所は、サッチの胸の中だった。
「ん。ぴったり」
「……ったく。しょうがねェなァ」
かつてこんなにジャストサイズなことがあっただろうかというぐらいしっくりくるその背中を撫で、ふと思い出した。
「背中……大丈夫か? 思いっきり爪立てちまった」
「は? 何で?」
「何でって……着物着た時に見えたらマズいだろ?」
無我夢中でしがみついたが、彼は女形だ。着物の衿から見える美しいうなじに引っかき傷なんぞあったら、色々な意味でシャレにならない。
「ああ、そういうことか。大したことないさ。それに爪っつったって、あんた職人なんだから短いだろ。仮に指摘されたら、ここぞとばかりにノロけてやるさ」
「恐ろしいこと言うなよ」
「ふふ。おれも浮かれてるな。言い忘れてたが、実家にはとっくの昔にカムアウト済みだ」
「へ? じゃぁお手伝い云々ってのは?」
「現実を受け入れられない頭の固いババァどもが、娘さんを寄越してるだけだ。彼女たちとも、おれに特定の相手が出来るまでって話はついてるし、もう断るさ」
「はァ……悪い男だねェ」
「何とでも。おれは、あんたがいてくれたらそれでいい」
「……調子のいいこと言いやがって」
しれっと言い切る胸の中の男をたまらなく可愛いと思ってしまったのを、慌てて毒づいて誤魔化した。
「なァ……一眠りして起きたら、も一回……な」
「冗談だろ。一日一発って決めてんの」
「おっさんだなァ」
ふふっと笑い、そのまま眠りに落ちたイゾウの重みを感じながら、「そういや、こいつも寝てないっつってたな」と思い出した。
「好きだ」って、言いそびれちまったな。
本人に直接言わずに、こんなことになってしまった。こういう言葉はタイミングを逃してしまうとなかなか言いにくい。気持ちは伝わっているだろうが、こういう言葉こそ口に出して言わないとダメだよなァと、サッチは反省した。規則正しい寝息を立て始めたイゾウを見ながら、起きたらちゃんと言おうと心に決め、胸に抱く形になったイゾウの頭をふわりと抱きこみ、サッチもしばし惰眠を貪ることにした。
「一体、どんな心境の変化だろうねい」
クリスマスが目前に迫った定休日。
『グラディート』のカウンターにずらりと並べられたワインボトルを見て、マルコがからかった。
「うるさいわね。おれだって本気出せば、ワインのひとつやふたつ、すぐ覚えるっての」
「へー。サッチ、今まではワイン避けてたのにな」
「何でおまえが知ってんだよ」
「へ? 見れば分かるじゃん」
「……そうなの?」
「? うん」
ワインの知識がないエースにまで指摘されるとは思っていなかったが、そんなことで落ち込んでいる場合ではない。
「とにかく! 来年、おれはワインを勉強するの。ツウをギャフンと言わせるようなラインナップにしてやるぜ」
「……なぁマルコ。"ギャフン"って何? 犬か何か?」
戸惑いながらマルコに聞くエースの言葉など、サッチの耳には届いていない。
『ワイン……勉強しなおしてみっかなァ』
あの日、気持ちよく寝ていたところをイゾウに「腹が減った」と叩き起こされ、改めて告白という甘い空気は吹っ飛んだ。朝食と一緒に持ってきていた軽食とパウンドケーキをベッドで摘まみ、結局そのまま二回戦に突入し、すっきりと出すものを出して賢者モードになったサッチがぽつりと言った。
『いいんじゃねェ? 別に資格まで取る必要はないにしても、あんたならもう一歩踏み込めば十分だろ』
『ヒヒ。才能はあるからな』
こっ恥ずかしくて茶化してしまったが、我ながらご都合主義な心境の変化に対して笑うことなく背中を押してくれるイゾウの優しさが嬉しかった。
『なァ。おまえ、さ。男物の着物は着ねェの?』
この男に対しての疑問は、いくらでも沸いてくる。これもその中の一つにすぎない。
『いや? そんなことはないさ。女物ほどじゃないがいくらかは持ってる』
『それ、見てェなァ』
『じゃぁ、初詣は男物にするか?』
『マジ?』
『あんたが見たいならそうする。ところであんた、着物は持ってるのか?』
『持ってるわけねェじゃん』
『だろうな。じゃぁ、あんたに晴れ着を仕立てるよ。リーゼントに似合うやつ』
突然の提案にサッチは驚き、しかし慌ててカレンダーを頭に浮かべた。確かもう、師走も半ばを過ぎている。
『は!? や、もうほぼ年末に近いけど?』
『普段は二十日ほど貰ってるが、一週間あれば出来るさ。根性で仕立てる』
『根性の使い先を間違えてねェか?』
『セックスで使おうか?』
『あれ以上はノーサンキューだ』
乱れた髪でふふ、と笑うイゾウに、サッチもヒヒっと笑った。
「そうだエース。おまえ元日が誕生日だろ? パーティーしようぜ」
サッチの提案に、エースは「マジ!?」と顔を輝かせた。
「けどジジィがさァ、帰って来いってウルセーの。でもカウントダウンはマルコとやりてェし、前倒しして年末に顔だけ見せて、ソッコー帰ってくる!」
「オッケー、じゃぁ元日の晩にすっか」
「二日の晩にしろい」
にべもなくマルコに却下された。
「……へいへい。独り占めしたいわけネ」
「当たり前だろい。おまえはイゾウと年越しセックスして腰でもいわしてろい」
「え!? サッチとイゾウって、とうとうヤっちゃったの!?」
何で知ってんだよ、とか、とうとう……っておまえに言われたくないよ、とか、年越しセックスっておまえたちもだろうが、とか色々言いたいことはあったが、反論する前に店のドアベルが陽気に鳴った。
「おう。やってるな」
現れたのは、たとう紙を手にしたイゾウだ。
「おまえの悪口を言ってたところだよい」
「ふふ。聞こえてたさ。サッチ、仮縫いが出来た。あとで合わせてみてくれ」
「もう出来たのかよ! こないだ寸法あわせしたとこだろ。早すぎんだろ」
「プロだからな」
しれっと言いカウンターに腰掛けたイゾウに、エースがすかさず食いついた。
「なぁなぁイゾウ、サッチとヤったの?」
「……エースくん。君、少し口を慎んだ方が良くないかな?」
「素直なところがエースの長所だろうが」
「おまえちょっと黙ってろよ」
「ああ、やっとな。まったく臆病なおっさんで手こずったさ。けどまだ子猫ちゃんだから、ネコ同士、色々と教えてやってくれな? エース」
「おう、分かった! おれ色々とマルコに教えてもらったから結構」
「ストーーーップ!! もうやめなさい!!」
居たたまれなくなったサッチは、ここぞとばかりにオーナー権限を振りかざし、会話を中断させた。
あの出来事以来どうしても進めなかった道を、サッチは誰のためでもなく自分の為に歩いてみようと思った。
たった一日で、人は変わる。イゾウはサッチの価値観を変え、ずるずると引きずっていた過去から前へ進むきっかけを与えた。歩む道は違うが、互いが思いやり、支えあえば可能性は無限に広がる。同性だろうが異性だろうが、生涯に1人でもそのような相手に出会えることは幸せなことだ。
もう一度だけ、信じてみっか。
イゾウの真摯さに打たれ、サッチはそう決心した。もちろんずっとうまくいくという保証はないが、互いにいい大人なのだ。仮にそうなったとしても、きっと冷静に話が出来るだろう。そのような事態になる予定は全くないが。
夢にまで見た伴侶は、とびっきり美人で、芯が通った職人で、自分の強さも弱さも受け止め、理解してくれる伊達男だった。人生は何があるか分からない。だからこそ、愉快で楽しい。
そんな人生もいいよなァとサッチは笑い、愛しい恋人に最高の一杯を差し出した。
(おわり)
------------------------------- 長い長いお話になりました。 お付き合い頂き、ありがとうございました!
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