「……何でいねェんだよ」
夜討ち朝駆けとはよく言ったもので、サッチは夜通し作った食事を持ってイゾウの自宅へ押しかけた。ピィンと張った空気が肌に突き刺さり、さくりと踏みしめた芝生には霜が降りていた。時刻は朝の6時前。寝起きの家人に刺されても文句は言えない時間だ。
工房の入り口ではなく自宅の前でたっぷり5分は悩み、ええいままよとインターフォンを押したが、返事はなかった。やはり寝ているのだろうか。しばらくしつこく押してみたが、一向に返事は返ってこない。こんだけ鳴らしてんだから起きろよとブツブツ言っていると、背後に気配がした。
「……あんた、こんな朝早くに何してんの?」
スウェット姿でコンビニ袋を手に下げたイゾウだった。
本職に出すなんてイヤすぎるんだけど、と笑いながら出してくれたコーヒーは「何でうちに飲みに来てるんだ」とボヤきたくなるぐらい旨く、冷えた体をじんわりと暖めた。こんなに寒いのに、イゾウはうっすらと汗すらかいていた。体力づくりも兼ねて、朝は5時に起きて走っているらしい。どこまでもイヤミでイケメンな習慣だ。
「……いい匂いがする」
イゾウの視線は、サッチが持ってきた紙袋に照準を当てていた。穴でも開けそうなその勢いに、サッチはごそごそと中身の一部を取り出した。
「朝飯……作ってきたんだけど、食うか?」
「食う」
一も二もなく返事をするイゾウに、サッチはヒヒっと笑った。もう口もきいてもらえないかもしれない覚悟で来たのだ。家に入れてもらい、コーヒーを出してくれただけでも上等だと思っていた。
「すごいご馳走だな」
まだほんのりと温かい焼きたてのパンに、作りたてのバター。海老とアボカドのタルタルサラダと、自家製のグラノーラにヨーグルトをかけたデザート。テーブルに所狭しと並べられた食事たちを、イゾウは嬉しそうに眺めた。
「昨日、何も出せなかったからな」
言い訳のようにそう言い、イゾウに勧めた。詫びを入れて差し入れだけして帰ろうと思っていたので、サッチの分は作っていない。「んっ」とイゾウが代わりとばかりに差し出したコンビニ袋を苦笑して受け取り、一緒に食べた。
「ごっそさん。こんな贅沢な朝飯を食っちまったら、コンビニなんて行けねェな」
満足そうに笑ってコーヒーを飲むイゾウにサッチは安堵し、居住まいを正した。
「……昨日、悪かったな。せっかく来てくれたのに、大声出しちまって」
サッチの緊張した声に、イゾウもコーヒーカップをテーブルに置いた。
「いや……おれこそ勝手にすまなかった」
「や……あれはおれが悪い。おまえさんの気持ちを知ってて、卑怯な言い方をしちまった」
しばらく沈黙が流れた。今時、付き合いたての高校生でもここまで押し黙ったりはしない。
「……今年の成人式、すごい雪が降ったろ」
突然話題を切り替えたイゾウにサッチはついていけず、記憶を手繰りながら「あ? そうだっけ?」と間抜けな答えを返した。
「数年に一度って寒波が来て、このあたりも珍しくドカ雪でな。時節柄、着物姿の子が多くて、交通事情も悪いしで結構大騒ぎだった。タクシーなんかも全然捕まらなくておれも歩いてたんだが、そのときに『グラディート』の前を通ったんだ」
そうだ。今年の成人式はまれに見る大雪で、振袖姿の女の子がいたるところで往生していた。『グラディート』の前でも、女の子が一人ぽつんと立っていたのを思い出した。
『よく知らねェけど、着物って高いんだろ? 軒先じゃ濡れるから店に入れよ。金がない? 何言ってんだ。成人式だろ? お祝いなんだからご馳走するって!』
下心なんてまるでなく、タオルだなんだと甲斐甲斐しく世話を焼くサッチを、イゾウは見ていたらしい。
「覚えてるぜ。あのあと待ち合わせの子が10人ぐらい来て、皆にご馳走したから大変なことになったんだ」
目の保養にはなったけどあれは参ったと笑うサッチに、「あんたらしいな」とイゾウも笑った。
「あの子の着物は、おれが仕立てたものだったんだ」
「そうだったのか。って、……え? おまえさん、仕立てた着物覚えてんのか?」
「当たり前だ。情を込めて仕立てたものばかりだ。数は千に近いが、見ればすぐ分かるさ。あの子の振袖は決して高いものじゃなかったが、仕立て上がった時に本当に喜んでくれたから、特に憶えてる」
「どんな記憶力だよ」
「職人なんてそんなもんだろ。お師さんだって何万と仕立ててるが、全部憶えてるぜ」
「……そんなもんかね」
「そんなもんさ。で、礼を言って店に入る女の子にさ、あんたこう言ったんだ『おまえさんみたいないい子に着てもらえて、振袖も喜んでるぜ』って」
縁とは奇なものだ。思わぬところで、二人は繋がっていた。
「値段が高ければ飛びつく、価値を知らない客ばかりにうんざりしてた頃でな。それをまるで畑違いのリーゼントのコックがさらっと認めてくれて、おれが褒められたみたいでなァ。すげェ嬉しかった」
くすぐったそうなイゾウの笑顔は、サッチが好きな顔だ。
「そんで、あんたのことが気になって『グラディート』に行ったら、あんた何度行ってもおれが男だって全然気付かないし、女の子にはやたら甘いし、お人よしだし、飯はマジで旨いし。で、気がついたら好きになってた。でもどっからどうみてもノーマルだし、何度も諦めようとしたけど、あんたを知れば知るほど欲しくなった。昨日のことだって、あんたがそうしたければおれには止める権利なんてないのは分かってたけど、ダメだった。あんな女にあんたの良さなんて、一生分かんねェよ」
淡々と話すイゾウの声に、サッチの胸は痛んだ。何でこの男は、ここまで自分を好いてくれるのか。『グラディート』しか取り柄のないこんな自分に。
「……何でおれなんだよ。おまえさんなら相手には困らねェだろ」
熱烈な告白にこっ恥ずかしくてぼそぼそと吐き出したが、イゾウにはしっかり聞こえていた。
「あんたは自己評価が低すぎるんだ。『グラディート』に来るお客は、皆あんたの料理と人柄に惹かれてるんだぜ? おれだってそうだ。けど、おれはそれだけじゃイヤだ」
欲張りだからな、と綺麗な顔で笑い、続けた。
「おれはあんたと一緒にいたい。あんたは『グラディート』でお客を幸せにして、おれは自分が仕立てた着物や舞いでお客を魅了する。休みの日は一緒に過ごして互いに気力を充電して、またそれぞれの場所に立てばいい。昨日みたいな喧嘩はまたするかもしんねェけど、すれ違って話が出来なくなるよりよっぽどいい。別れるなんて選択肢はおれには一生ねェが、あんたがもしイヤになったら、とことん話し合おう。突然いなくなったりするのは、ナシだ」
イゾウの言葉は、言葉にしていなかったサッチの不安すべてに対して答えを出していた。だが、
「おまえさん……それ、言う相手間違えてるって」
こんな情熱的な口説き文句は、リーゼントのおっさんではなく可憐な女の子に言うべきだ。
「こんな話を間違えるわけねェだろ。おれはあんたが好きだ。……サッチ」
真っ直ぐ自分を見つめる瞳は、悲しい色をしていた。イゾウはクールな外見とは違い、よく笑う男だ。出来れば彼にはいつも笑っていて欲しい。そしてそんな彼の横に立てるのであれば……。
はぁー……、と長い溜息をつき、リーゼントにしていない前髪にぐしゃりと手を差しこんだ。
"年貢の納め時"というのは、こうもはっきりと目に見えるものだったらしい。
「……くそ。何でこんなことになっちまったんだ。おまえさん、見た目はしとやかなのに、結構強引だよな」
「欲しいものは、手に入れねェと気がすまないんだ」
「で、手に入れたら飽きるタイプか?」
「そこからさらに執着するタイプだ。そうじゃなきゃ、舞いも仕立てもやってねェよ」
「もしおれが、おまえさんをこっぴどく振ったらどうするんだ?」
「頭を丸めて寺に入ると言うべきなんだろうが、生憎おれは煩悩の塊でね。そんなことは出来ねェから、一生あんたを想い続けて独りで舞って、着物を仕立てて、傷心と怨念を抱えて涅槃に行くさ」
「ぶっ! マジかよ!」
「大マジだ」
耐え切れずサッチが吹き出すと、イゾウも吹き出し、二人で笑い転げた。ヒィヒィ言いながらひとしきり笑い、サッチは笑いすぎて出た目元の涙を拭った。
「あー、もう。ほんとにおまえさんってやつは。そんな捨て身で来られたら、逃げようがねェだろうが」
「当たり前だ。逃がす気なんてねェよ」
「だろうな。怖い怖い」
けどちょっと待ってくれ、とサッチは遮った。
「電話、1本してもいいか?」
「は? 今か?」
「今だ」
「別に構わねェけど……。外すか?」
「いや、ここにいてくれ」
サッチは鞄に入れていたスマートフォンを取り出し、ようやく滞ることなく出せるようになった通話画面を呼び出した。ふぅ、と息を吐き、イゾウを見た。
「おれはアナログ人間でね。こういう操作はホントに苦手なんだが、そういう人間ほど、変なことは憶えてるものさ」
そう言うと、澱みなく11桁の数字をタップした。イゾウは手にじわりとかいた変な汗を、ぐっと握り締めた。呼び出し音は、数回のコールで通話に切り替わった。
「……よう、久しぶり。悪ィな、早くに。うん……。うん。ああ。まぁな」
サッチの穏やかな表情に、イゾウは観念した。お人よしで虫も殺さないような顔をしながら、この男は何と残酷なことをするのだろう。
「うん。……うん。そうだ。……すげェベッピンなんだけど、怒ると怖ェんだ。……うん。頑固だし、強引だし、全然引かねェし。もう色恋なんて年でもねェおっさんを真剣に口説いてきてな。物好きなやつさ。けど、仕事でも何でも信念持ってて、眩しいぐらい真っ直ぐでなァ。気がついたら惚れちまってた。……。……ああ。……うん。そうだな。その方がいいな。……ああ。……元気でな。うん。……それじゃ」
通話が終わっても、イゾウは動けなかった。
「ほい。これでおしまいだ。……って、何て顔してんだよ」
スマートフォンを鞄へ投げ入れたサッチが苦笑した。
「……あんた、酷い男だな」
じとりと上目遣いで睨みつけた。
「おまえさん程じゃねェよ。こんぐらいの仕返しは許されるだろ?」
ヒヒ、っと笑い、テーブルの皿を片付け始めたサッチの手に、イゾウは静かに触れた。
「……冷て。何? 冷や汗かいてんの?」
「心臓が止まってたからな」
重ねられた手を、サッチはそっと握った。キメが細かく綺麗な手だが、よくみると指先はごつごつとしている。実直な職人の手だった。
「……さすがに、愛想尽かされたと思ってなァ」
その手に視線を落とし、サッチが呟いた。
「それはない。おれの方こそ、あんたのコーヒーはもう飲めないかと思った」
「ばっ、それこそねェよ。もう店に来ないとか言ったら、マジでぶっ飛ばすぞ」
「それは困る。おれはあんたのコーヒーが世界一好きなんだ」
「よく言うぜ。本職にあんな旨いの出しといてよ」
「あんたに淹れて貰うコーヒーには、誰も勝てねェよ」
握っていた手を握り返され、イゾウの口元へ導かれた。柔らかい唇が震えていた。
「……なァ、やっぱりキスしてェ。こんなナリだけど」
「格好は関係ねェだろ。……って、あ~……あれな。悪ィことしたなぁ。キスがヤなわけじゃなかったんだぜ?」
前回拒んでしまったことは、やはりイゾウの傷になっていた。
「じゃぁ、何で止めたんだよ」
恨めしげな黒い瞳が、じっと見つめる。
「だからそれは」
続きは、そっと近づいてきたイゾウの唇がやんわりと塞いだ。
テーブル越しの触れるだけのキスが、何時間も続いたような気がした。触れたときと同じようにそっと離れた唇に、サッチは「……くそ、やっぱりだ」と悔しさを滲ませた。
「何がだ?」
「……こないだ、先進めなかったワケだよ。酔った勢いでヤっちまってもおかしくなかったのに何で止めちまったのか、おれにも分からなくてな。あれからずっと考えてたんだ。やっぱり思ったとおりだ」
「サッチ、一人で納得しないでくれ。おれにも分かるように説明してくれ」
イゾウの懇願に、サッチはああもぅと白状した。
「……おまえさんの女装だよ。キスされたときに、すごい違和感があった。何で女装じゃない、素のおまえさんとキスするほうがドキドキすんだよ……!」
「……マジかよ」
「くそ……っ。自分でも分からねェよ。おまえさんのせいだからな。責任取れよ!」
届かないと思っていたサッチとの距離は、いつの間にかテーブル1つ分にまで縮まっていた。その最後の距離をゆっくりと縮め、イゾウはサッチの前に立った。
「そりゃもちろん、全力で」
艶然と微笑むその姿は、女装をしているときよりも艶やかに見えた。
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