「……サッチ?」
日曜日の『グラディート』は、明日は週明けだぞという重たい空気が客を追い出し、閑散としている。サッチにとってはお楽しみの定休日が待っている素敵な夜なのだが、今日は様子が違った。閉店間際に来たイゾウが見たのは、客がいないとは言えまだ営業中だというのにカウンターに座り、イゾウをちらりと見て「よう」と力なく笑うオーナーシェフの姿だった。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
イゾウが隣の席に座ると、サッチは「いや? 身体はすこぶる元気だぜ?」と答えるが、明らかに様子がおかしい。
「何があった?」
「……おまえさん、すごいタイミングで現れるなァ」
「惚れてるからな」
イゾウの言葉にサッチは「おまえさんは、おまえさんだなァ」と笑い、自分のスマートフォンをテーブルへ置いた。
「あれから7年だ。もう7年も経ったってのに、まだ動揺するんだなァ」
その言葉にイゾウは全てを察した。
「連絡が来たのか?」
「自分勝手なやつだよなァ。あんだけこっぴどく振っといて、今更ヨリを戻したいんだとよ」
その言葉に、イゾウは全身の血の気がざっと引いた気がした。
「……見るぞ」
サッチの返事を待たず、イゾウは慣れた手つきでメールを開いた。どこから情報を得たのか、サッチが成功していることを知った女からのメールだった。あの頃の私は愚かだった。またあなたと二人三脚で頑張りたい。私の知識をあなたのお店で役立てたい。そこには感情などない、上滑りした言葉が並んでいた。イゾウは一通り読んで瞳を閉じ、じっと考え込んだ。集中している姿だった。やがて開いた瞳はこれまでに見たことがない冷酷な色で、サッチはぞくりとした。
「あんたは、どうしたいんだ?」
「……どうするもこうするも。ヨリを戻す気はねェって。けどなァ。あいつが困ってるんなら、手を貸しちまうだろうな」
とりあえず店に来てもらって話をしようかと思ってる、というお人よしなサッチに、イゾウは「そうか」と静かに手を動かした。
「え……? え? おまえさん、何してんの?」
端末を操作し始めたイゾウに慌てて声を掛けるが、「黙ってろ」と一蹴された。静かだが有無を言わさない口調に、サッチは押し黙った。時間にしておよそ数分。サッチに端末が返された。
「これで全部おしまいだ」
「……はっ!?」
慌てて中を確認する。メールの送信済みフォルダに、彼女宛の1通のメール。サッチは返信などしていない。恐る恐るメールを開くと、そこには一体何をしたらこんなことを言われるんだという辛辣な内容が表示され、最後は脅しとも取れる文面にサッチは再び背筋に寒気が走った。
「着信拒否もした。アドレスも履歴も、何もかも消した。ていうか、何でまだ入ってんだ」
「おま……、何すんだよ!」
思わず声を荒げたサッチの胸倉を、イゾウが思わぬ力で掴んだ。
「振り回されてんじゃねェよ! あんたの金が目当てに決まってんだろ! 『グラディート』もあんたも利用されて、価値がなくなったらまた7年前に逆戻りだって、何で分からねェんだ!」
それは初めて見るイゾウの逆上した姿だった。しかしサッチは今度こそ怯まず、イゾウの胸倉を掴み返した。
「おまえに、あいつの何が分かるってんだ!」
「分からねェよ。分かりたくもねェ! あの女だって、あんたのことなんて何ひとつ分かっちゃいねェよ!」
ギリギリと睨み合いが続いた。先に目をそらしたのはイゾウだった。溜息をついて手を離し、すまんと詫びて背を向けて出て行く音を、サッチは振り返ることなく聞いた。
「……くそっ」
やり場のない怒りを拳に託し、サッチはカウンターを叩き付けた。
お客さんが元気になれる店にしようと、"陽気"を意味する『グラディート』を店の名前にした。
ティーチに裏切られ、金も女も奪われて無気力になっていた時にふらりと入った一軒の店が、サッチの人生を変えた。決して贅沢ではないが心がこもった料理に、自分が初心を忘れていたことに気付かされた。結局、自分はキッチンに立つことしか出来ない人間だ。一部の人間が楽しむものでははなく、誰もが笑顔になるような料理を作りたい。ケーキだけではなく、色んなジャンルの料理を出せる職人になりたいと思った。自分より年下のシェフに頭を下げ、教えを乞うた。知識を蓄えるためなら、なりふり構わなかった。
そんな修行を続けていたある日、たまたま通りかかった空き倉庫に心を奪われ、その足で不動産屋へ行き勢いで契約した。店の内装の手配はマルコが奔走してくれた。この店の半分は、彼がいなければ成り立たなかったとサッチは今でも思っている。資金の捻出の為に、身の回りのものを処分して、住んでいたアパートすら解約した。それでもどうしても費用が足りなくて、養父に頭を下げに行った。彼は「息子が親を頼らなねェでどうするんだ」と豪快に笑い、金を工面してくれた。返済など不要だと言われたのを固辞しコツコツと返済していた借金は、今年の春にようやく終わった。
毎日のルーティンで慣れた体は、サッチの気持ちなどお構いなしにいつも通り後片付けを終わらせ、2階の自室に戻った。念願の定休日だがとても遊びに行く気にはなれずシャワーを浴び、いつも1本だけと決めている缶ビールを2本立て続けに煽って横になったが、睡魔は一向に訪れない。
「……愛想、尽かされちまったかな」
勝手にメールを送られたり、自分では出来ない操作をされたり(迷惑メールのフィルターすらイゾウに設定してもらったのだ。着信拒否の解除など自力で出来るわけがない)、胸倉を掴まれて怒鳴られたというのに、口から出た感情は思いがけないものだった。
サッチにとって『グラディート』は人生そのものになりつつある。生活のための場所という領域はとうに超えていた。7年前の裏切りも、パートナーのいない孤独も、『グラディート』があればどうということはなかった。しかし、イゾウが自分の元から離れてしまうかもしれないと思っただけで、突然床が抜けて奈落の底へ堕ちていくような錯覚に陥った。
イゾウが誠実な人間なのは、彼や彼の仕事ぶりをみれば十分に分かる。しかし人の心は移ろうものだ。今は良くても、いつか離れてしまうかもしれない。今までは去るものは追わなかったが、もしイゾウが自分の元を去ろうとしたら、きっと無様に縋り付いてでも引き止めてしまう。そんな自分が怖かったのだ。追うよりは追われる方がよっぽど楽だ。振り返って手のひらを返されたらと考えただけで寒気がした。だから認めようとしなかった。
イゾウの想いを受け入れたら、また前と同じ傷を負うかもしれないし、今度こそ立ち直れないかもしれない。だが、まだ負ってもいない傷に怯えてこのまま彼を追わなければ、きっと一生後悔する。
未だに"過去"に出来ない自分に、イゾウは今度こそ呆れただろう。
しかし、彼を失うことなど、考えたくない。
「……くそ。おっさんの恋わずらいとか、タチ悪ィだろ」
サッチは腹を決めてベッドから出ると、再び厨房へと降りた。
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