それっきり、イゾウは『グラディート』に顔を出さなくなった。出さなくなったと言っても1週間だが、サッチはあの踏み込んだ会話がいけなかったんだろうかとそれはもう心を痛めた。
彼にも仕事や都合があるだろう。「最近店に来ないけど、どうした?」と連絡を取るほどの間柄ではない。自分に出来ることはただこの店を開けることだけだ。
「最近イゾウ来ねェな。3日おきぐらいには来てたのに」
さすがにエースも気付いたようで、心配そうに言った。
「仕事が忙しいんじゃねェのかい?」
マルコが興味なさげに答える。
「そっか。なァサッチ、イゾウって何の仕事してンの?」
「知らねェ」
案外そっけなくなってしまった答えに、慌てて付け加えた。
「客のプライベートには首突っ込まねェんだよ」
「でもサッチ、イゾウとすげェ仲いいじゃん。連絡先とか知ってんだろ?」
エースのその声に、サッチは自分のスマートフォンを取り出した。慣れない手つきで履歴を呼び出すと、イゾウからの着信履歴が1件だけ表示される。先日買い換えたばかりで、まだ使い方がよく分かっていない。というか正直通話もままならなくてボヤいていると、イゾウが笑いながら電話をかけて取り扱いを教えてくれた。だから彼の連絡先はさりげなくこの端末に入っている。
基本的に、サッチはアナログ人間だ。わざわざスマートフォンにする必要はなかったのだが、ふらりと寄った携帯ショップで可愛いお姉ちゃんに熱心にセールスされ、勢いで機種変更してしまった。下心は皆無だが、サッチは基本的に女の子が好きだ。
「イゾウの趣味の悪さには辟易するねい。こんなおっさんのどこがいいんだか」
その一言に、エースが異常に反応した。
「え! え! やっぱりイゾウとサッチってそうなのか!? そんな気はしてたんだけど、2人ともそんなん顔に出さねェじゃん? だから分かんなくってよ」
「だからおまえはガキだって言うんだよい。おっさん2人が欲望丸出しにしてたまるかよい。公害以外の何者でもねェだろい」
「あ、ひでェマルコ! またガキっつった!」
「ガキにガキっつって何が悪ィ。クソガキ」
痴話げんかになったところでサッチは我に返り、慌てて否定した。
「ばっ!! おれはそんなんじゃねェよ! おれはおねーちゃんが好きなの。男は範疇外なの。分かるか? ノーマル。アイムノーマル。オーケー?」
わけの分からない英語まで使って必死に否定するが、マルコは「まァ言うだけはタダだからねい」と聞く耳を持たず、エースはカウンターに置かれたスマートフォンを不思議そうに見つめていた。
「なァサッチ。それ、通話になってねェ?」
1日分、いや、1週間分の労働を一気にしたような疲労感に襲われ、トレードマークのリーゼントが垂れ下がったような気分がした。
「最悪だ……」
がっくりと項垂れるサッチに、マルコがトドメをさす。
「いいじゃねェか。脈がねェってハッキリ伝わったろい」
「バカヤロー、簡単に言うんじゃねェよ」
エースの指摘に慌てて端末を耳にあてると『サッチ?』と不思議そうなイゾウの声が聞こえた。
『あ、あ、悪ィ。勝手に掛かっちまった』
『そうか』
その声にいつもの柔らかさはなく、重たい沈黙が流れた。何時間にも思えたその気まずい空気を破ったのはイゾウで『悪ィが手が離せないから、用事がないなら切るな』と言って、通話は一方的に終了した。
「絶対聞こえてたよなァ……」
「うん。だってサッチ、すげェ声がデカかったもん」
何のためらいもないエースの返事は、サッチの心臓にナイフを刺した上に思いっきり抉った。
「エースくん。もう少し人に優しくなろ? な?」
テーブル席の片付けに行った背中に声を掛ける。彼に大人の配慮を求めるには、もう少し時間が必要なようだ。
「悪ィことしちまったなァ」
はァと溜息が零れた。マルコの言うとおり、脈がないのにその気を持たせるのは確かに悪い。しかしそれにしても、もう少し何かいい方法があったのではないかと思うのだ。
しょんもりと肩を落としてサーバーを洗う作業に戻ったサッチの姿にため息をついたのは、マルコだった。
「おら、これやるよい」
渡されたのは1枚の名刺だ。和紙で出来たそれには「仕立工房 いざよい」とある。
「イゾウの名刺だ。自宅兼工房らしいよい」
「へっ? え? 何でおまえがイゾウの名刺持ってんの?」
想像も付かなかったマルコとイゾウの繋がりに、サッチは驚きを隠せなかった。
「少し前に、イゾウの師匠の新作発表会のコーディネートを頼まれたんだよい。そのときの打ち合わせをあいつの工房でしただけだ」
「……へぇ。そっか」
2人が『グラディート』で話しているのを見たことがないわけではなかったが、そんな付き合いになっているとは全く知らなかった。そしてそのことに、サッチは心のどこかがチクリと痛んだ。
名刺を眺めていると、片付けを終えたエースがニヤニヤしながら戻ってきた。
「なぁなぁ、それってコジンジョウホウのリュウシュツってやつじゃねェ?」
「おまえの個人情報も丸裸にしてやろうかい?」
「……スイマセン」
返す刀でバッサリと斬られ、すごすごと厨房へ入っていくエースを「だからバカなんだよい」と見るマルコの目は、これ以上ないほどに温かいものだった。意地っ張りなパイナップルめと思ったが、正直今はこの2人にかまけている余裕がない。
イゾウがこのままの関係でいいと言うので、サッチも特に返事はせずにずるずると心地の良い関係を続けてきた。しかし大の男がずっとこのまま仲良くしましょうというのも限界があるだろう。これを機にきちんとケジメを付けた方がいい。
「サンキュな。明日の夕方にでも行ってみる」 サッチはマルコに礼を言うと、コックコートの胸ポケットへ名刺を大事にしまいこんだ。
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